田中三郎の日記

カテゴリーに月ごとに分類してあります。カテゴリーをクリックしてから入ると読みやすいと思います。

関東大震災

2.大正12年9月1日

日記中表紙 わかりやすい字を書かれます。1ページ目 本文1ページ目から10ページまでは、主婦の友の記事をおそらくそのまま写しているようです。 そうか。昔はコピーもないから、記事をクリップするには手で写すしかないんだ.....。スゴ。 11ページ目から本…

3.大正12年9月1日 関東大震災発生。火災発生。神中に避難をする1

(続き) 「黒煙もうもうたる火煙は、戸部4丁目方面より現れ出た。家の坂下渡辺邸の白煉瓦は全部往来に落ち、電柱は傾き、その間をカスカス歩き登り来る人々は皆、烈傷を負い、流血し、目も当てられぬ様なり。婦人の如きは素足にて泣き泣き走り、老人は呼吸…

4.大正12年9月1日 関東大震災発生。神中に避難をする2

「神中校入口の混雑は、また特別で一時垣根の側に休んだ。父は竹内氏(戸部小学校女教員)に会い、互いに無事を語っていた。この間は地震は鎮まりたるも、火事はますます広くなり、あまつさえ風力激しく、今、通りたる道の付近、即ち杉山神社、西戸部小学校…

5.横浜の田中家どこにあったのか?

三郎氏の日記に地図が書いてあった。 三郎氏は絵が上手なので、いろいろとわかって助かる。 これによると田中家は雪見橋から岩亀横丁という道を真っ直ぐ進んだ左にあることがわかる。 Googleマップによれば、雪見橋交差点というのが現在の横浜市西区花咲町5…

6.田中家の避難経路

コピーをして日記にあった記述を書き込んでみた。 三郎氏が書いた地図に私が経路を書き込んでみた。(コピーをして書き込みました) またまたGoogleマップのお世話になりましょう。大正時代と道が違っているので、少々難儀でしたが、こんな感じで避難したの…

7.(余談)田中規矩士の妻、すみこの関東大震災

たなかすみこ著 『虹色のひらめき...を、あなたも』シンコーミュージック1984年に書かれている話です。(87ページ) 「あの日は土曜日でしたので、私の通うミッションスクール(横浜共立女学校)はお休みで、地震のあった正午少し前には家で昼食も終わり、ピ…

8.大正12年9月2日1 神中の周りは火災被害で悲惨な状況。朝鮮人の暴動?長兄敬一無事に横浜に帰る。

9月2日(日)晴 「昨夜より絶えずあった地震の為、眠られなかった。 余は東が赤らむ頃、校庭を出て御所山を見に行ったが、驚いたことには池の坂上より見た御所山、山王山、西戸部、平沼方面は丸裸の焼け野原となっていた。 余は昨日家を立ち退く際、我が家は…

9.大正12年9月2日 2 ヤマハグランドピアノとベヒシュタインピアノ、蓄音機、レコード70枚、和声学原書が灰になる。

9月2日の日記には重要なことが書いてありました。 「さて、我が家を見ればどこが境界やら解らず。哀にもベヒシュタイン、ヤマハグランドピアノの2台は針金のみとなっていた。ああ、残念なる。あのビクター蓄音機及びレコード70数枚、又敬一兄の和声学原書、…

10.大正12年9月3日 横浜を離れる。東神奈川駅にて。

9月3日(月)晴 「桃井氏の庭に寝た我々5人は朝食を済まし、一同に別れを告げて大井町(姉の実家)に向かう事とした。途中、池の坂、御所山の一部を通り抜け、天神山より活動倶楽部前、横浜駅と来た。両親は横浜市が一朝にして焼け野原となったこの光景を眺…

11.大正12年9月4日の話1 東神奈川駅から生麦に行く

9月4日(火)晴 「明け方少し眠ったが直きに起こされた。昨夜の火事を一同に聞くと、神奈川ライジングサンの燃え残りとの事みて、ホッと安心す。朝食は安倍氏と一同と食したが、南京米の飯にて、とても口には入らなかった。余が初めて他国米の味を知った。さ…

12.大正12年9月4日の話2 生麦から大井町まで

「鶴見の総持寺には鮮人が多く居るとのこと、だが一般にこの辺りも良好。鶴見もほどなく過ぎて川崎に近づいた。線路の側に田舎女の梨を売っているのが目に付く。川崎のマツダ電気会社の一棟は全壊の様子であった。」 このマツダ電気は、現在の川崎にある東芝…

13.大正12年9月5日から7日まで 家族全員が東京府荏原郡大井町庚塚に移住。

「9月5日(水)晴 戸外が騒がしいので目が覚めた。往来は救助自動車や避難の人々で賑やかであった。早く朝食を済ませて再び生麦の父母の所に行く。勿論徒歩。池谷氏方は親類の人などで賑やかなり。しかし父母は客室に招待されていた。その夜はここで一泊す。…

14.大正12年10月7日から10月11日まで。規矩士武蔵高校に出校。共益商社の富永氏に会いに行く。

(多忙だったようで1か月空いてしましました。この後はコンスタントに日記をつけています) 「10月7日(日)曇り 本日役場吏員原小学校に出張して救助米を受くべき避難民の貧富の程度につき質問す。結果余の分は削られて父母2人分となる。救助米件は役場3時…

15.大正12年10月12日 日比谷公園に避難をした被災者を見る

「10月12日(金)晴のち曇り 8時より徒歩で本郷に古本を買いに出る。 途中、芝、日比谷公園を訪れ、バラックを見る。バラックはほんの板を一列に並べたに過ぎない家で、順序良く引き窓(湯殿にある窓)があり、夜はこれを閉ずるものらしい。 1バラック内に数…

17.大正12年10月15日から10月20日まで 規矩士は震災以来初の東京音楽学校に出勤。豊増昇の手紙

「10月15日(月)曇り小雨 規矩士兄今日より上野音楽学校に出校。(東京音楽学校) 竹須氏役場の様にて来たり。家族の貧富の様子を調査さる。午後よりまた来たり。盆二枚下さる。時澤、内田、角蔵氏より無事の返事来たる。内田氏は大阪のセルフレザー会社に…

19. 大正12年10月22日から10月24日まで。規矩士は黒澤家を訪問する!

「10月22日(月)曇り 吉川君10時頃遊びに来たる。氏は家族一同と横浜出帆の大洋丸にて神戸に行き、それより郷里の金沢に帰りしも、一昨日また母と2人して大森の父の立ち退き所に戻りし嘉、いろいろ避難についての怖ろしき、あるいは面白き話あり。神戸は避…

20.大正12年10月25日から10月27日まで。ピアノが手に入らない。黒澤氏が見舞いに来る。

「10月25日(木)曇り夜小雨 朝早く竹須氏来たり。大井町宮本組合にて避難民慰安会を鹿島神社境内で挙行し、その際音楽もしたき旨、話あり。午後、原小学校に救助米を受けに行く際、山川氏の末子に会う。山川氏一同は震災後徒歩で野宿をして、二宮の別邸に行…

21.大正12年10月28日から10月31日まで。ピアノ入手!調律の板倉氏が来る

「10月28日(日)曇り 午前中敬一兄、姉と共に大仏方面に散歩す。その時、震災秘密写真3枚(洲崎の死体、被服廠の死体)を50銭で一車夫より買う。右は実に恐ろしき光景にて、記念とすべきに足るものなり。」 残酷というか悲惨な写真をついつい見たくなるのは…

22.大正12年10月までのまとめ。

(附) 月日の経つのは早いもので震災以来二か月の星霜は過ぎた。顧みるに我が乞食となりてより、色々困難をなし、又、色々の経験をしたが、これ皆修養の一部分となった。帰って愉快である。一方震災当時は手に文庫と用箪笥んも一引き出しを持つに過ぎなかっ…

23.大正12年11月1日から11月4日まで。規矩士自宅レッスン再開

「11月1日(木)晴 9時半ごろ父と共に生麦新住宅地国道筋の永楽銀行の仮事務所に行き、規矩士兄の貯金、約280円を払い戻す。母の分は印を焼失の為、約一週間後に支払う由。銀行金の話によれば横浜支店は支店長外4名の事務員全部圧死せりと。それより生麦停留…

24.大正12年11月5日から11月6日。戸籍滅失。

「11月5日(月)晴 夜明け方、強震あり、一同戸外に飛び出る。9時頃より大森の松岡写真館に行き、1組3枚半身像を写す。それより蒲田まで歩き、汽車に乗りて横浜に行く。そして桜木町の市役所仮事務所を訪れ、戸籍謄本を取らんとせしも、戸籍焼失に付き、不可…

25.大正12年11月7日から8日まで。規矩士は聖心女学校のピアノ判定をする。父、敬義は恩給支払いの手続きをする。

「11月7日(水)曇り雨 朝、神中に学業成績書を請求す。午後より父は竹須夫妻と共に、三木邸隣の平林方の菊を見物に行く。帰りに竹須細君一人、家に寄る。そしてピアノを見る。本日敬一兄は月島小学校より雑記帳2冊、ゴム消し3個、鉛筆3本の慰問品を受く。京…

26.大正12年11月9日から15日まで。敬一盲腸炎になる。

「11月9日(金)晴 今朝より急に寒くなった。敬一兄は少し気分が悪くて学校を休む。竹須氏夫人来たり。お酉様の土産の里芋をくださる。」 気象庁のデータでも最低気温6度と急激に冷えたことがわかりました。 https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view…

27.大正12年11月16日から18日まで。旧被服廠跡にて。風呂を作ろうか?

「11月16日(金)晴 8時より出京す。勿論往復徒歩す。途中南品川の医者にて、身体検査書をとる。 例によって改正道路を品川に進み、三田に折れて赤羽橋を渡り、芝公園を過ぐ。この時、飛行船飛来し来たる。 東京ももはや大分復興して、店頭に旗を出し、看板…

30.11月まとめ

大正12年9月より始まった三郎氏の日記も、3ヶ月が経ちました。世の中はだいぶ落ち着きを取り戻したようです。とはいえ壊滅的被害を被った東京や神奈川県は、復興にいろいろと手間取ることも多いのでしょう。戸部銀行がなかなか再開しなかったり。多くの死傷…

44.大正13年1月15日。関東大震災の最大余震丹沢地震発生!

「1月15日(火)曇り 忍耐は金の成る木 朝、6時少し前、近頃にない激震があった。余は未だ熟睡中であったが、地震と同時に跳ね起き、勝手口の錠をとり、ただちに門を開けて戸外に出た。父もまた、余の後ろに来た。規矩士兄、母は奥の六畳間より庭に出た。敬…

120.大正13年8月28日から8月31日まで。武高の生徒のためにヴァイオリンを選んだ。

8月29日(金)曇り 中央大学に提出すべき入学願書、履歴書を書く。また平町の虎之助氏に手紙を出す。敬一兄、少し風邪をひき、痰が出る。午後、武高の生徒の父兄来訪さる。右は規矩士兄が生徒の為、ヴァイオリンの選定をしたその礼である。カルルス煎餅をく…

123.大正13年9月1日1.あれから一年が過ぎました。

あの「関東大震災」から1年が過ぎました。横浜にあった田中家は罹災してしまい、結局大森に引っ越しを余儀なくされました。 大事にしていた楽譜、音楽書、レコード、そしてベヒシュタインのピアノもすべて灰となってしまいました。あの日は近所の神奈川県立…

124.大正13年9月1日2.9月2日。新聞記事を写す。中央大学の別科に編入することになった。

三郎氏は新聞記事を熱心に写します。この当時はコピーはないので手で写すしかないです。やはりいろいろと思うことは多かったと思います。 東京日日新聞。 銀座では、追悼のため2時間休業をするようです。 摂政宮(昭和天皇のこと)同妃殿下は新宿御苑で栽培…

125.大正13年9月3日1 東京市主催震災復興展覧会に行く。(関東大震災100年記念イベント情報も)

(久しぶりに長い日記です) 9月3日(水)曇り 今朝4時半ごろスリパンが鳴る。これは震災記念に打ったらしい。半鐘で人々早く起きてしまった。」 スリパンとは擦半鐘のことらしいです。 kotobank.jp 朝早くから「火事だ火事だ」と半鐘が鳴ってしまったら、ビ…