田中三郎の日記

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27.大正12年11月16日から18日まで。旧被服廠跡にて。風呂を作ろうか?

「11月16日(金)晴

8時より出京す。勿論往復徒歩す。途中南品川の医者にて、身体検査書をとる。

例によって改正道路を品川に進み、三田に折れて赤羽橋を渡り、芝公園を過ぐ。この時、飛行船飛来し来たる。

東京ももはや大分復興して、店頭に旗を出し、看板にこてこてにペンキを塗って、なんとなく賑やかに一見して博覧会の売店を思わせる。

日比谷公園内の如きは、さらに盛んで、往来上に三間位おきに電灯を吊るし、昼間でもつけてある。まるでお祭り騒ぎだ。

神田もまたほとんど古本屋が復興した。

余は中等日本史上下巻、漢文解釈、国文解釈法の4冊(3円50銭)を買う。

正則英語学校はここに2階建てのバラック家を作っている。

これより両国に向かう。途中両国橋傍にて、パンを食す。この時大塚方面に火煙が見えた。これは高等師範学校の火事だ。

さて、本所被服廠跡を訪れる。付近には花を売るものありて賑やかだ。今も参詣人引きも切らず。万世橋より両国橋までは絶えず乗合自動車がかっている(?。走っていると言いたいのか?)現場には納骨堂あり、参詣す。誠に3万人の霊がこの中に宿っているのである。参詣人の置かれた花は、うず高く積もり、一種感にうたれる。

これより再び両国橋を渡り、左方に折れ一直線に三越近くに出る。銀座通りはとても賑やかだ。人道には露店の商人が並んでいる。

新橋に来たり玉木の白いんげん豆を30銭で買う。

かくて朝来たし道を戻る。帰宅は6時ごろ。

本日奥井氏来たり。来週より稽古を始むると言う。神戸の井口氏より10円の為替金送付あり。父は今日柳行李、火鉢を買う。夜、本牧のおじさんより、以前にもらったパインアップルの缶を開ける。」

 

Googlemapによると大森駅から旧被服廠跡まで15kmと出ました。旧被服廠跡は現在は横網町公園といって、両国駅の北側のようです。Googlemapによると3時間12分だそうです。この当時の人はそのくらいの距離を歩くのは普通だったのか?往復30kmです。ひゃ!

被服廠跡では関東大震災で大変な被害となってしまいました。納骨堂があって、追悼の祭壇が設けられていたのですね。(黙祷)

kantodaishinsai.filmarchives.jp

パイナップルの缶詰は、いつの時代にもご馳走感あふれる気がします。(^.^)。

 

 

「11月17日(土)曇り

8時半から三田通りの竹内楽器店に行き、バイヤー(バイエルのことだと思います)を買う。(1円20銭)

その側のはんぺん屋にて、はんぺんを買う。往復徒歩す。

昼食後、相生町の角蔵氏来たり。牛肉の缶詰を下さる。今は田舎の関から東京の会社に通える由。

同時に大森西沼の吉川君遊びに来たる。氏もまた毎日市ヶ谷の士官学校内の外語仮校舎に通える由。現在はかつて金沢に避難せる弟などありて、家狭くなれりと。約1時間遊びて帰宅さる。

入れ替わりに横浜の朝比奈氏及び娘(ピアノ弟子)見舞いに来たり。金5円及びタオルを下さる。

尚又増田氏(敬一の旧友)来たる。規矩士兄は朝比奈氏等を大森駅に送り、帰りに山川ゆか子氏に会う。

夕方医者来たる。ますます良しと、薬をとりに行く。

夜、竹須方に湯に行く。龍之介、柴田氏一行とトランプをする。」

 

 

 

11月18日(日)曇り

朝、竹須氏来たり門前に貼る(?漢字が読めない)票2枚くれる。氏の話によると、風呂場設置の件は後藤氏許せるとのことにて、地所決定は自由なりと。

昼頃、藤村氏(旧宅の隣人)来訪さる。氏は今度東京に勤務となり、神戸より帰れるも家無きため妻子は彼の地に残せると。現に家を捜せる所なり、

夜、父、規矩士兄は三又に散歩に行き、木村家にて軍用パンを買う。」

お風呂を竹須さんの家で借りていたようですが、自前で作ることにしたみたいですね。そういえばこの時代は銭湯が当たり前だと思うのですが、銭湯に行ったという話が見当たらないように思う。何故だろう?

 

関東大震災の動画を見つけた。こんな風に火災が発生していたのですか。

そして11分あたりに本所被服廠跡の様子が写っています。三郎氏が見ていた景色はこれかもしれません。

【【全編公開】1923年 関東大震災 直後の映像 逃げない群衆 猛烈な火災 救護活動…(2022年9月1日)】

 

www.youtube.com

 

上の動画はこういういきさつがあったそうです。

www.youtube.com