田中三郎の日記

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3.大正12年9月1日 関東大震災発生。火災発生。神中に避難をする1

(続き)

「黒煙もうもうたる火煙は、戸部4丁目方面より現れ出た。家の坂下渡辺邸の白煉瓦は全部往来に落ち、電柱は傾き、その間をカスカス歩き登り来る人々は皆、烈傷を負い、流血し、目も当てられぬ様なり。婦人の如きは素足にて泣き泣き走り、老人は呼吸も絶え絶えに「水をください、水を一杯」とさらに悲哀なるは親子皆散り散りになり、道路に泣き崩れ、身体谷まりたる場面、誠にこの如き往来に於いてこれ等の悲しき光景を目前に見るによってもいかに横浜全市の状況の惨めなるかが察することが出来る。

 

坂下の戸部銀行の主人は、一人にて金庫を抱え、父に風呂敷の要求を願いたるも、この場合何とも出来ず。さらに余に銀行まで「主人が御所山に避難した」との通知を願いたるも、余は突然の言葉なるに驚いた。多分狼狽せる結果、口がすべった(?)のであろう。暫時にして、銀行員等皆帳簿を持ち山上に避難してきた。

母は更に奥の間に入り、文庫を出したが、箪笥は傾き、いかんとも手のつけようなく、見ながら金子を放棄した。右の文庫は祖父の作りしもので、全ての書類、印、免状等入っている。それで御所山の火事の時、安全にこれを出す事が出来たが、この度の震災においても母の手によって無事に運ぶことが出来たのは実に僥倖と言うべきであるか。

 

さて、この時また地震が始まった。我々及び往来にいた人々は垣根にすがった。その震動の具合は怖ろしく、何とも例えようがない。余は地面が地球の中心に向かって陥没するのではないかとまで考えた。一方火事が(漢字が読めない)坂下方面に写り、又、天神山方面にも新たなる火煙昇り危険刻々と身辺に迫った。この間常に爆破の如き怪しき音がドーンドーンと聞こえていた。山川氏は早く一家を引率して逃げ来たり。神中方面に避難された。

往来の人々は一様に神中方面に逃げようと我々に忠告した。時澤外2人はついに我々が呼び留めるのも聞かず、各々己が家に帰った。

 

我々は此所に一大決心を起こし、我が家を去り、神中に向かう事とした。然し余はシャツ1枚のみにて素足なれば母は余の為に(?)を取ってきてくれた。実を言うと余は非常に驚きしたため、夢中になっていた。

 

余は着物をつけ、手ぬぐいをかぶり、文庫を手にして父母一同と往来を進んだ。勿論藤村氏夫妻及び女中、関氏等同行していたが、その道たるや実に困難一方ならず、加藤重利氏横の石垣は往来に崩し、危険甚だしく思われた。吉川重信君の家の前を天神山に下らんとせしもまた、(?)く危く、両側より道に傾きたる家の間の狭き鼠の穴のごとき場所を発見して通った。この際同行の人々と判るるに至った。我々は火煙を眺めつつ天神山に出て、それより一直線に願成寺に向かった。天神山の狭い通にこれまた「押すな押すな」の騒ぎで電柱は倒し、商家の看板は落ち、店はグラグラになり、もし今一度強震あれば家の破壊は勿論、我々はこの所に永久に送らるるであろう。父は昼食前の事にて店頭にありたる羊羹を数本、菓子箱に入れ、歩きながら食べ、腹を充した。誠に一朝にして、あさましい姿となったものだ。かくしてやっと願成寺に来たり。神中の坂を登る。坂の中途に警官が居て、池の坂埋め立て地と神中校庭とは絶好の避難地なりと示してくれたのは、我々一同に対して非常に心を励ました。おそらく他の人々に於いても同じ心になったであろう。我々は神中へ心を向けた。」

 

神中とは、神奈川県立横浜第一中学校のことのようです。この当時の田中家の場所から近かったのです。長兄敬一、次兄規矩士、三郎氏の母校です。

沿革|神奈川県立希望ケ丘高等学校 全日制

神奈川県立希望ケ丘高等学校 - Wikipedia

 

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