田中三郎の日記

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4.大正12年9月1日 関東大震災発生。神中に避難をする2

「神中校入口の混雑は、また特別で一時垣根の側に休んだ。父は竹内氏(戸部小学校女教員)に会い、互いに無事を語っていた。この間は地震は鎮まりたるも、火事はますます広くなり、あまつさえ風力激しく、今、通りたる道の付近、即ち杉山神社、西戸部小学校、願成寺等は既に火の下にならんとする形勢になっていた。我々は神中講堂前に行った。この所は避難者にて大変な騒ぎで、地上にござを敷くもの、学校内より椅子等を出してそれに休むもの、さながら戦場の如しである。我々4人はこのなかに席を取った。この際も地震は常にあった。」

 

火災が広がってきていました。恐ろしいことです。

 

「更に混雑のため、後庭に行く。ここも全く同様であったが、見知らぬ家族連れの人々の坂の上避難されいたるを幸い、一時休ませていただく。後庭より見たる火煙は三方に(?)西戸部一体(?)に桜木町、他は長者町方面に思われた。時に時間はもう4時頃だったろう。

神中校庭はいつの間にか群衆にてかなり広い運動場も身動きもならぬ程となった。しばらくして父と共に池の坂に行ってみる。ここもまた、避難民でごたごたしていた。彼等の中には早くも棒を並べてバラック的の家を作っていたものがあったが、大部分家道具を運ぶ連中で大混雑。この池の坂埋め立て地は地震の亀裂が大変あった。西戸部方面の避難地はここと神中後庭、久保山、掃部山等だとのこと。

 

さて混雑の間を抜けて後庭に帰る。火煙はますます昇りて一大噴火の如く、日が西に傾く時分に至っては、その光線煙を照らし一種恐怖の感を起こさした。それに小振動は絶えず(?続くと言いたいのでは?)避難地における我々の驚きは決して静まるものではなかった。時に神中門前の桃井氏、後庭に避難されたるを幸い、面会して事情を話、いろいろ厄介になる。桃井氏は家道具の大部分を校庭に運んだと見え、山をなしていた。西が赤くなった頃、益々周囲の状況は怖ろしく、時々爆発する様な音は一層人心の振動さした。その夜は皆、野宿した。然し寝る者はなかった。

 

夜半、神奈川のライジングサン石油会社のタンクが爆発した。そのきは実に物凄く赤黒色の煙が上がり、しかも煙の間から月が時々顔を出す所は壮観であった。夜の後庭は所々に一群となって提灯を照らし、その間の模様を互いに語り合っていた。その中を人名を呼びながら尋ね回る人々あり。これらの光景は、とても一生涯忘るることが出来ぬ。さて、神奈川の火煙はなかなか収まりそうに見えなかった。この日、避難地における知り合いの人々の話に悲憾なことがいろいろあった。中には逃げる最中、百円を落としたとか、瓦が頭に当たりたるとか、あるいは岩亀横町の知り合いの床屋の主人は、妻君の足が鴨居で圧せられるを知りつつ火事の切迫の為、妻君を棄てて逃げたとか、一々枚挙にいとまがない。大地震の一夜は怖ろしい中に過ぎていった。あの小児の何事も知らずスヤスヤと寝ているのは、我々をして一種異様の感に打たせる。」

 

三郎氏は淡々と書いていますが、恐ろしい光景が広がっています。周りは火災が広がり、神中に迫ってきています。

これは陸軍被服本廠跡地の、あの火災旋風に巻き込まれて多数の死者が出てしまった、あの話とそっくりです。

 

この関東大震災の日、能登半島に台風がいて、関東地方も風が強かったようです。この強風が火災被害を大きくした可能性もありそうです。

 

news.yahoo.co.jp

台風が来ていて南からの強風と、火災による熱風で暑かったようです。リンク先の気象観測は東京ですが、真夜中に気温45.2度というトンでもな記録もあるようです。この神中校庭も迫りくる火災もあって、おそらくとても暑かったのでは?と想像します。

気象庁の過去データは横浜は9月はすべて欠測になっていました。気象台も被災してしまって観測が出来なかったのかもしれません。

気象庁過去の気象データ 横浜】

https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=46&block_no=47670&year=1923&month=09&day=&view=p1

www2.nhk.or.jp