田中三郎の日記

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2.大正12年9月1日

日記中表紙

わかりやすい字を書かれます。1ページ目

本文1ページ目から10ページまでは、主婦の友の記事をおそらくそのまま写しているようです。

そうか。昔はコピーもないから、記事をクリップするには手で写すしかないんだ.....。スゴ。

11ページ目から本文です。

(以下本文)

「9月1日(土)晴

大正12年9月1日正(正午)12時2分前、これこそ安政以来の大地震大火災の在りし特に記念すべき時刻なり。その時における我が家の状態は、敬一兄は東京月島第二小学校(教員の諸澤方)に、姉は一ツ橋高等小学校仮教室に、母は勝手に寝着のまま洗濯をなし、規矩士兄は稽古日のこととて、時澤(姉)、梶浦(姉妹)のピアノ教授をなし、父は茶の間に、余は同じくこの間に新聞を見ていた。

突然ビリビリという障子、唐紙の音、やがて器物が倒れる、ガラスが破れる、とても室内に居られず何物も持たず勝手口から我が家の横路に飛び出たが、その時の震動は実に大きく、家の瓦は飛ぶ、石段の石がめちゃくちゃに落ちる、家はミリミリと傾く。まるで食膳の茶器を下部より御膳諸共動かすかのごときであった。この如き危険の位置にうろついていた余が今日地上に立つことの得たのは不思議というより他に道がない。この大地震の中を父母は余より先に勝手口に出て、それより往来の青年同窓会の垣根へすがり居れり。余はこれを知り急いで我が家及び関氏の屋根より落下する瓦をよけつつよろよろと往来に出た。その時はもはや無我夢中で我を忘れていた。

父は時澤他2人の室内に臥し居たるを呼び、戸外に出したるも、中々震動は収まらず、規矩士兄は庭の木戸より出でんとせしめも不可能にて、ついに塀を乗り越えた。その際瓦にて頭、手に微傷を負った。往来にはいつの間にか関(夫人と小児)藤村、小川氏等の顔が見えていた。皆一様に恐怖の念にかられていた。さて母は火の用心のため、震動の少々収まりたるを幸い、勝手に周り火を消した。今日は一日にて赤飯の用意で釜は熱く煮立っていたのだ。誠に残念至極。が、俄然第二の恐怖、それは何であるか?それは火事である。」

 

まずわかる事は、あの日、長兄、敬一は月島第二小学校の教員で勤務中と思われること。

姉というのは敬一氏の妻のことです。

次兄規矩士は自宅レッスンをしていたこと。

母は洗濯、父と三郎氏は茶の間にいたこと。

そして関東大震災発生。

田中家の家がミリミリと傾いてしまったこと。

家々の瓦が飛んで家が傾いてしまったこと。

規矩士兄が少し怪我をしたこと。

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