田中三郎の日記

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13.大正12年9月5日から7日まで 家族全員が東京府荏原郡大井町庚塚に移住。

「9月5日(水)晴

戸外が騒がしいので目が覚めた。往来は救助自動車や避難の人々で賑やかであった。早く朝食を済ませて再び生麦の父母の所に行く。勿論徒歩。池谷氏方は親類の人などで賑やかなり。しかし父母は客室に招待されていた。その夜はここで一泊す。」

 

長兄敬一の妻の実家が無事であることがわかったので、三郎氏は生麦の両親の元に行ったようです。この時、敬一、規矩士は同行したかはわかりません。

 

「9月6日(木)晴

朝7時半、横浜の旧宅地に行く。東神奈川にて榎本(ピアノ弟子)氏の圧死せるを安倍氏より聞く。

 

さて、旧宅地に池谷方にて作れる立退きの立て札を立てる。次に相生町の内田粂太郎方を訪れる。丁度角蔵氏及び両親焼き場にいた。妻と子ども二人圧死せりとのことにて、皆、悲痛の状なり。ここにて本牧北見氏の一同無事を知る。それより横浜正金銀行の光景を眺む。門前は実に怖ろしき死体の山となっていた。また側の石塀をのぞき見たるにそこここに腸や脳の外部に黄色く現れた焼死体あり。とても悪臭にて一秒とも見ていることが出来なかった。これより馬車道を一直線に吉田橋を渡り伊勢佐木町に出る。橋下は石油にて真っ黒く、その間に死体無数にあり。中には馬犬の如きの獣もあった。伊勢佐木町通りは全部焼け野原となり、これより水道山、あるいは山手方面が楽に見える。長者町の家はすぐ近くの山の家に避難して無事であった。日本橋電車線は亀裂甚だしく、それに地面が低下していた。再び吉田橋に来たり大江橋を過ぎて旧宅御所山に寄る。時に日下村の吉蔵氏に家の前で会い、互いに無事を話し、かつ大井町××方に避難せるを言う。吉蔵氏は役場用にて横浜に出張せりとの由、3時ごろ帰途につく。相変わらず横浜駅高島町通りは人々の混雑甚だし。その夜生麦に一泊。時々小地震ありて驚く。」

 

旧宅のあった横浜に行ったようです。悲惨な状況が書かれています。何も言えない.....。

この日は生麦に一泊しました。

 

 

「9月7日(金)晴

朝6時頃大井に帰る。これより大井と生麦の間を往来せしも、家事忙しきため記すことを得ず。その間、大井の××家にて兄弟3人にて夜警をなす。絶えず小地震あり。(?)る世間さわがし。品川~横浜間は先に危なく汽車開通したりたるも12日よりは更に子安~品川間(六郷徒歩連絡)の京浜電車開通す。これ皆工兵隊の働きによったのである。

これより父母は大井の竹須喜久止方に移ることとなる。時に12日の昼頃。

この頃より郵便貯金の非常払い(ただし1日一口30円以内)あり。我々は時々出しに行く。16日竹須方より現住所(東京府大井町庚塚4879)に移る。がしておいおい家財道具増加し、また見舞品を受け遂には戸棚一杯にならんとす。10月となりて世間も静まりいよいよ、将来に光明あるかの如く思われてきた。ああ考えるとまるで夢の如しだ。

第1回慰問品

9月30日庚出安全組合総本部にて配給。寄贈者 岐阜県土岐郡稲津村加納鞭次郎氏

慰問袋 缶の中に焼いた大豆在中 梅干し少々

手ぬぐい、歯ブラシ、楊枝、浅草紙

味噌 

梅干し

ジャガイモ、素麺

 

第2回慰問品

10月3日  寄贈者 大阪市東区淡路町5丁目10番地上田商店内 河西マン

慰問袋 着物 氷砂糖

タオル、せっけん箱(花王石鹸在中)ハガキ 消毒箸、薄紙

茶碗2個、軍用パン1袋、味噌、かんぴょう、するめ1枚、福引.....金賞当たる」

 

あの大地震から15日後の、9月16日、結局横浜ではなく大井町に住むことになりました。両親も生麦から結局大井町に移り住みました。

新しい家になっていろいろと整える必要があったようです。何かと忙しく、結局この後は10月になって新しく書かれることとなりました。

慰問の品々が届けられたようですね。岐阜県土岐郡稲津村は現在の岐阜県瑞浪市のようです。大正時代の土岐郡の写真。村上海一写す。

浅草紙って?

現在のティッシュペーパーかトイレットペーパーのことのようです。なるほど。

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