田中三郎の日記

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12.大正12年9月4日の話2 生麦から大井町まで

「鶴見の総持寺には鮮人が多く居るとのこと、だが一般にこの辺りも良好。鶴見もほどなく過ぎて川崎に近づいた。線路の側に田舎女の梨を売っているのが目に付く。川崎のマツダ電気会社の一棟は全壊の様子であった。」

 

このマツダ電気は、現在の川崎にある東芝川崎事業所のことではないかと思う。

こちらのウェブサイトにマツダランプのこととして書いてあります。

museum.nyk.com

「六郷の長鉄橋も無事に通ることが出来た。橋の向こうから汽車が、それは貨物列車が出るとのこと、にて、我々は急いだ。一番後車に乗る。もちろん無料だ。今か今かと出発時間を待つうちについに3時となった。その間、人々は時間の誤れるを怒って車より降りる。また乗ると言う騒ぎにて、女子どもにはとても安心していられる様ではなかった。あちらの隅で、ワッと悲鳴をあげるかと思うと、この方にその反動が来るという始末。まるで芋を洗う様であった。3時過ぎに出発の汽笛がなる。丁度田舎の私立鉄道の発車する如しだ。蒲田、大森、大井の各駅には一々止まるが、プラットホームでないので、実に降りるには危険である。ついに品川終点まで乗った。品川東京間の未だ見込みなしとのことだ。」

(三郎氏の絵)

 

「品川からいよいよ八ッ山、青物横丁とあの狭い危ない通りを通っていった。各商店の前には接待の水が並べられてあった。通行人の心を慰めてくれた。通りはまた救済自動車、自転車、馬力等で押すな押すなの騒ぎであった。仙台坂を上った我々3名は、我知らず××家(プライバシーを尊重して伏字にします)に吸い込まれた。玄関には女の下駄があった。姉はいたのだ。しかも無事。いろいろ話しの結果、我々が着いた4時の30分前に家に着いたとのこと、非常に困難した物語があった。いよいよこれで田中の家族6人は無事に揃った。実にこの如き嬉しく喜ばしいことはない。もし一人でも不明の者があれば、その苦痛、いかばかりかであったろうか。その夜は安心して床についた。xx家(プライバシーを尊重して伏字とします)は××(戸主)、茶の先生、母で(と、だと思います)一同7人の大人数となったわけだ。これで怖ろしい4日間の大地震の物語は終わった。」

【1923(大正12)年関東大震災- 火災被害の実態と特徴 -】

https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou040_12-13.pdf

このPDFに火災が発生した地域が書いてあります。これによると神田も火の海になってしまったようです。祖父は「北は火災で逃げられず、南に逃げた。」と言っているので、このPDFの地図でよくわかります。

【関東大震災の火災被害と写真映像】

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/seika/302s/132-146.pdf

こちらのPDFには皇居前のお堀端に避難した人々の大変なごった返した写真もあります。