田中三郎の日記

大正12年から13年の日記。横浜における関東大震災そして東京移住・東京音楽学校・大正時代の市井の人々の生活。

11.大正12年9月4日の話1 東神奈川駅から生麦に行く

9月4日(火)晴

「明け方少し眠ったが直きに起こされた。昨夜の火事を一同に聞くと、神奈川ライジングサンの燃え残りとの事みて、ホッと安心す。朝食は安倍氏と一同と食したが、南京米の飯にて、とても口には入らなかった。余が初めて他国米の味を知った。さて、いよいよ安倍氏に暇乞いし、握り飯を手にして大井町に向かう事とした。その握り飯は又、南京米にて、丸の形をつくり、新聞紙で一つづつ包み、副食にサケを入れてあるのだが、平時はこれらは食するに困難なものも、この時ばかりは、命の糸として手にした。」

この当時のお米がどんなものかはわかりませんが、南京米というのは外米のことでしょうか?外米は粘り気が少なくてぱさぱさしているので、おにぎりには向かないかと思う。

(適切に調理をすればとても美味しいのですが、この当時外米、例えばジャスミンライスやバスマティライスをきちんと調理する方法を知っている日本人はいたのかしら?チキンビリヤニは美味しいですね。)

 

東神奈川駅を去った我々5人は、鉄道線路の枕木を踏みつつ進んだ。八王子線(現在の横浜線のことだと思います)と東海道線の交点は、ひどく損ぜられていた。普通なら線路の上を歩くことは厳禁だが、今はそれも何処へやら、京浜間の避難民等で人波を打っていた。子安は火事で大半、焼け野原となっていた。しかして子ども等は何事も知らず、線路に停止せる省線電車に乗り嬉喜しているのが、一層対照の妙を得ていた。

さて、段々と鶴見に近くなると暑さも加わり、体も疲れて来た。時々朝鮮人の線路に放棄された死体を見て、一時は疲労を忘れたが、又真きに元に帰るのであった。あるいは空高く飛ぶ飛行機にしばらく見とれるのであったが、それも暑さにかなわなかった。」

 

横浜の気象台の観測は欠測でしたが、東京の気象庁の記録はありました。最低気温24.5度、最高気温31.6度。カンカン照りの線路は暑いし、歩きにくいしで困難な道中であったことが察せられました。

気象庁|過去の気象データ検索

 

「生麦に来た時に、池谷菊次郎方を思い出した。寄って氏を訪問することに決めた。この辺りは割合に地震の程度もよく、瓦が少し落ちた位であった。氏方に着いた時、菊次郎氏母は喜んで我々を迎え、心より一同無事を祝してくれた。氏方には他に親類の方が見え、混雑の様子であった。さて我々兄弟は両親をひとまず池谷方に託し、大井の姉の安否を尋ねんと急いだ。それは両親のとても大井町に行くことの不可能を知ったからだ。我々は握り飯を戴き、前の安倍氏の分(阿部氏からいただいた握り飯のことだと思います)と一所にして、生麦を去った。その時は多分11時頃であったろう。」

 

疲れ果ててしまった両親を生麦の知人(多分)にお願いをして、敬一、規矩士、三郎の3人は大井町へと急ぎました。