田中三郎の日記

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10.大正12年9月3日 横浜を離れる。東神奈川駅にて。

9月3日(月)晴

「桃井氏の庭に寝た我々5人は朝食を済まし、一同に別れを告げて大井町(姉の実家)に向かう事とした。途中、池の坂、御所山の一部を通り抜け、天神山より活動倶楽部前、横浜駅と来た。両親は横浜市が一朝にして焼け野原となったこの光景を眺め、驚いていた。横浜駅もめちゃめちゃになり、駅前の惨状は目も当てられず、電線は往来に落ち、人々の通行を苦しめていた。又、半焼となった電車の壁には、何某無事何処に避難せりとか、簡単な文句が白墨で書かれてあった。高島町の大通りは人の波を打ち、老人、子どもの往来には甚だ危険であった。月見橋は落ち、橋下の水は真っ黒にて一種怖ろしき感を起こさした。されば鉄橋を一列になり両親を助けつつ渡ったのであった。高島駅上の大時計は実にこの記念すべき大正の御代の大地震を物語るものの如く静かに我々に12時2分前を示していた。今、我々がこの前に立った時の感は、一種異様で、又おそらくこの時計の停止した目盛りを見る者は、永久に孫子の間に悲惨な現状を物語り、かつ書き伝える事であろう。ああ、一朝にして世の中は一転してしまった。」

 

横浜の惨状。胸が痛いです。

田中家は長兄敬一の妻の実家、大井町に向かうことにしたようです。長兄敬一の妻の実家が無事であったのかはわかりません。しかしこのまま横浜にいても仕方がないと判断されたようです。

 

「我々兄弟は両親を助けつつ文庫を互いに持ち、元気を出してなおも進んだ。神奈川駅もまた大分破壊されていたが、高島山、反町及び東海道線に沿った地は無事である。京浜電車のプラットフォームを下りて汽車線路に出た。この時、線上に小屋を立てていた天理教の信者、親切にも見ずを我々に与え、いろいろ親切に、老人は梅干しとしょうがさえあれば精力が衰えずとて父にこれ等を与え、また飯も用意しあればたくさんに食べられよともてなしてくれた。誠に親切な宗教家としては充分本分を(?)した人々で、一同好意を謝して、過ぎた。さらに一町行くと労働者らしき人、我々に救助握飯を分与する場所を示してくれた。その親切なこと「渡る世間に鬼はなし」の一句、ただちに思い出された。東神奈川駅に達した時、父母は少し疲労した。その時、鮮人の現れた報を聞いて、人々は皆、小屋から出て男は刀、木刀を手にし飛び出してきた。されば我々は難を避くる為、小屋に近寄りたるに偶然榎本氏(ピアノ弟子)の姉と会い、世話を受く。」

 

被災してしまった人々に善意の心遣いが多くあったようです。田中家の面々もその恩恵に被り、ありがたく思って、大井町まで困難な道を歩みます。

 

(この後この朝鮮半島の人のリンチ事件の記事になります。あまり気持ちの良いものではないので、画像でそのまま出します。この問題はデリケートな話です。私はよくわからないので、専門家にゆだねてしまいたいと思います。この画像の無断転載を禁止します。)

「さて、榎本氏(本名安倍銀次郎)のあっせんにより仮小屋にて休むこととした。氏の家は倒壊して母は驚き、遂に死せりとのこと。この駅にて佐藤氏(ピアノ弟子)に会う。姉(榎本氏の姉のことだと思います)の尋ねに「横浜に行ったが見えぬ」と言う。夕食は一同にて握り飯を食す。そのうまいこと、殊にお漬(物)は器物なきため、大皿に入れ安倍氏等と共に飯廻す。夜は氏の言により付近の省線電車に入り露を防いだが、ロウソクを使うことが出来ないため誠に困難した。11時ごろ急に火事と報するものあり。我々一同は狼狽して車より飛び降りる。かくして氏等一同とプラットホーム側の鉄道職員寄宿舎に入るが、驚いたことに南京虫のため眠られなかった。」