田中三郎の日記

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9.大正12年9月2日 2 ヤマハグランドピアノとベヒシュタインピアノ、蓄音機、レコード70枚、和声学原書が灰になる。

9月2日の日記には重要なことが書いてありました。

「さて、我が家を見ればどこが境界やら解らず。哀にもベヒシュタインヤマハグランドピアノの2台は針金のみとなっていた。ああ、残念なる。あのビクター蓄音機及びレコード70数枚、又敬一兄の和声学原書、あるいは余の教科書及び記念絵葉書700数枚、あのヴァイオリンあるいは椅子等は全部灰燼となってしまった。焼けた門前に立った余は一度は悲観したが、直ちに過去を見ることを変えた。トタン板上に焼木で、神中前桃井氏方に避難せりと書いて、門前に置き、神中に帰った。途中吉川君に会い、互いに無事を祝す。」

 

横浜の田中家にはヤマハグランドピアノとベヒシュタインがあったと書かれています。このベヒシュタインがグランドピアノかアップライトピアノかはわかりません。ヤマハはグランドピアノと明記されていました。

 

三郎氏が書いた横浜の家の間取り

ピアノはどの部屋に置いてあったのかはわかりません。そんなに大きな家ではないようです。この家に父、母、長兄敬一、長兄の妻(おそらく)、次兄規矩士、三郎と6名で暮らしていたようです。

たなかすみこ著 『虹色のひらめき...を、あなたも』シンコーミュージック1984年に書かれている田中家の様子。

「私のこの雪見橋の先生も、貧しいながらも才能のあるピアニストというのが最初の印象でした。二間しかない家の大きい方の部屋にピアノが置いてあって、広い敷地のある家に住んでいた私には少々驚きでした。」(78ページ)

次兄規矩士は旧制武蔵高等学校より年俸600円という話があるらしい。この当時の田中家の収入がどのくらいであったかは定かではないが、音楽好きと伝わる田中家、家よりも「ピアノ」「レコード」「蓄音機」「和声原書」という感覚があったのかもしれない。

(何か思いつく話がありましたら、ご教示くださいませ)