田中三郎の日記

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8.大正12年9月2日1 神中の周りは火災被害で悲惨な状況。朝鮮人の暴動?長兄敬一無事に横浜に帰る。

9月2日(日)晴

「昨夜より絶えずあった地震の為、眠られなかった。

余は東が赤らむ頃、校庭を出て御所山を見に行ったが、驚いたことには池の坂上より見た御所山、山王山、西戸部、平沼方面は丸裸の焼け野原となっていた。

余は昨日家を立ち退く際、我が家は地震のため傾くも火事の心配はなしと心に想像せしも、今この光景を見て、火の強烈なるに驚けり。

かくて我が家に近寄りたれども、所々に火が燃え居る所あり。如何とも出来ず。

尚又付近には黒焦げとなりたる死人あり。誠に悲惨な有様となっていた。

彼等は近所の人々ではなく、皆岩亀横町、あるいは天神山辺りより山に登り来たりたる人の如く思われた。

死人は加藤重利氏の急坂にも約50名、皆手に所持品を持ち、あるいは子どもを抱え、ひとしく倒れていた。我々が行った時は、死人は鼻血を流し、石垣に寄り倒れ、又は現に身体が焼けつつあるのがあった。

これらの傍らに死人の近親らしき人、近寄りてさめざめと泣き、あるいはこの様子を見て念仏を唱える者あり。

我々は自然、泣かずにはおられなかった。

思うに彼等死者は下町より御所山に逃げれば良しと思いて来たらしく、しかし、三方より出た火の為には身体谷待って逃げ道を失い、焼死したと推定することが出来る。」

悲惨な光景です。言葉がありません.....。

(中略。この中略は後ほど。田中家は残念なことに焼けてしまいました。)

神中校庭にては、関、藤村氏、魚田(県女音楽教師)に会う。

関さんの如きは主人不在の為、夫人一人にて子どもを抱え、神中に避難したるも母乳少なきため人より玄米の粥を得、て、これを飲ます等、見るも哀れなり。

この時分は地震少なきも火事は神奈川ライジングサンが盛んに燃えていた。

時候は実に暑く、我々は困った。

時に時澤家の縁者来たり。昨日の様子を父に聞く。大変心配の様子なりき。しかし3人無事の報あり。

昼過ぎ、敬一兄、東京より無事帰り来たる。東京も大変の由。」

長兄敬一が月島第二小学校より無事に横浜までたどり着いたようです。しかし敬一の妻はまだどこにいるかわかりません。

この当時はまだ電話は普及していないようです。田中家には電話はありません。

 

「昼過ぎ、朝鮮人が数名校庭に現れ、我々に乱暴をした。第三の恐怖がこれである。彼等鮮人は武器こん棒を持ち、およそ数名、体をなして乱暴し、盛んに避難民に向かってピストルを発砲した。我々もまた、在郷軍人連の命令により皆棒きれを持ち、応戦した。鮮人は保土ヶ谷に根城あり、その数千(人)と言われた。将に彼等の為、神中避難地は取り巻かれんとしたが、我々一同防ぎし結果、彼等は逃走した。この際某警部は、朝鮮人と誤たれ、我々のため殺された。この日横浜刑務所の囚人を出して鮮人暴動者を殺さした。」

朝鮮人の暴動のことが書かれています。

私は専門家ではないので、ノーコメントとします。

(これに関する意見、反論は一切受け付けません。これは日記に書いてあったことです。この当時はこれがリアルだったんだと思います。朝鮮半島の方々の差別を助長するものではありません。この部分のみの無断転載も禁止します。)

 

「かくて余の一行は桃井氏の邸宅の損害少なきを幸い、氏の家族、親類の方々と共に庭に避難した。同時に大谷嘉兵衛氏も桃井方に避難されて来た。氏は地震当日東京にあり、急いで横浜に来たりたれども掃部山の氏宅は灰燼となり、誰もいないとの事。その夜、桃井古庭に大谷氏等と寝たれども、鮮人と地震のため常に驚かされた。8時頃横須賀の陸戦隊到来により、避難地よりは喜びの叫びが上がった。この日鮮人は井戸に毒を流し、もしこれを飲めば直ちに死すという惨たる行動をした。また、この日の我々の食事は3度とも握り飯、(?)を桃井氏より得て、命を続けた。誠にに桃井氏の親切なるには、一同深く感じた。不安な二日目は過ぎた。」

 

(2023年12月28日記)

2023年9月、このことを書いた本が出版されました。このことと出版された本を照らし合わせてみました。以下にその記事のリンクを貼ります。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com