田中三郎の日記

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7.(余談)田中規矩士の妻、すみこの関東大震災

たなかすみこ著 『虹色のひらめき...を、あなたも』シンコーミュージック1984年に書かれている話です。(87ページ)

 

「あの日は土曜日でしたので、私の通うミッションスクール(横浜共立女学校)はお休みで、地震のあった正午少し前には家で昼食も終わり、ピアノのレッスンに田中先生のところへ出かけるところでした。」

三郎氏の日記にも「この9月1日は稽古日」と書いてある。午後、すみこはレッスンに行く予定であったと思われます。

「私の家は庭が広いのと土台がしっかりしているおかげで、家の中のものが壊れたり窓ガラスが割れたりしましたが、建物自体は無事でした。少しはなれた敷地内にある社宅は助かりましたものの工場は全滅。」

こちらの記事にも「工場が全滅してしまった」ことが書いてありました。

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地震の日以来、庭には、家がこわれたり火事で焼けてしまった近所のひとたちが大勢避難してきています。私の家のメイドさんたちは、家に蓄えてあった食べ物をほんの少しづつですけど、その人たちにお分けしています」

そしてこの地震と火災ですみこが通う横浜共立女学校の校舎は全壊してしまいました。

沿革 横浜共立学園中学校高等学校

(2023年8月2日追記)

国会図書館デジタルにて公開されている『横浜共立学園六十年史(昭和8年出版)』によると、横浜共立女学校はこの日は夏季休業中だったそうです。

dl.ndl.go.jp

なのですみこは家にいたのでしょう。

 

(余談)

私の父方の祖父は、この当時神田にいました。1885年(明治28年)生まれ。

元々長男だったので、家業を継がなくてはならない。祖父はそれに反発をして、とうとう15歳の時、東京に家出をしてしまったそうです。

祖父が家出をした時、余部橋梁が開通していなくて、船で舞鶴まで来て、そこから汽車で京都まで出て、東海道線で上京したそうです。

舞鶴は軍港があったので、比較的早く鉄道が敷かれていたようです。

東京では今の日経新聞の新聞小僧をしながら勉学を続け、中央大学予科に入学。弁護士試験(司法試験にあらず)に1922年(大正11年)に合格。27歳でした。

合格者の名前が官報に掲載されます。祖父も掲載されていました。

そしていよいよ「弁護士事務所開業」を考え、神田で準備をしていた所に関東大震災。結局焼け出され、郷里の島根県に東京から名古屋までは中央本線、(「東海道線はズタズタでどこまで行けるかわからなかったから」と言っていました)その後東海道線、そしてやっと全線開通していた山陰線で帰郷しました。

祖父は

「怖ろしい火災だった。上野公園に逃げようと思ったが、北は火が出てい行かれず、南に行くしかなかった。お堀端で立往生していた(おそらく二重橋あたりの大手町付近?)。あくる日事務所兼家に戻ってきたら何もなかった。仕方がないから都落ちとなったよ。残念だった」

と語っていました。

最も祖父は

関東大震災で焼け出されなくても、その後の東京大空襲で焼け出されていたかも。結局郷里で開業する運命だったのかなあ」

とも言っていましたが。

祖父はすぐ東京を離れた訳ではなかったようです。地震後、戒厳令が敷かれたり、治安が悪くなったり、トラブルも多かったようです。ヒヨッコの新人とはいえ弁護士だったので、自警団をやったり、トラブルの相談に乗ったり、地域のために奔走していたようです。

 

ネット情報なので、どこまで信用していいかわかりませんが。

弁護士とは元々「公事師」と呼ばれる良く言えば「弁論する者」悪く言えば「事件屋」のようなものから、明治になって欧米にならって法に基づいて「弁論」する「代言人」そして、「弁護士」へと変わったそうです。明治以前の「事件屋」をひきずった悪代言人も多かったようで、いわゆる「三百代言」なんて蔑まれたこともあったようです。

そんな歴史的経緯があり、判事検事を登用する試験と、弁護士試験は別々に行われていたそうです。弁護士試験は学歴不問。帝大にいかなくてもなれたことから、地方から「立身出世」を夢見て東京に出て来た苦学生たちが多く合格したとか。Wikipediaには「独学」なんていう人も!

しかし同じ法律職の登用試験が別というのがこの当時既に社会問題化していて、大正12年(1923年)に法曹一元化に基づいた「高等文官試験司法科」となったそうです。これが現在の「司法試験」の始まりだそうです。