田中三郎の日記

カテゴリーに月ごとに分類してあります。カテゴリーをクリックしてから入ると読みやすいと思います。

19. 大正12年10月22日から10月24日まで。規矩士は黒澤家を訪問する!

「10月22日(月)曇り

吉川君10時頃遊びに来たる。氏は家族一同と横浜出帆の大洋丸にて神戸に行き、それより郷里の金沢に帰りしも、一昨日また母と2人して大森の父の立ち退き所に戻りし嘉、いろいろ避難についての怖ろしき、あるいは面白き話あり。神戸は避難民の待遇良しと。3時頃帰宅さる。本日、富永氏、ピアノの件について来訪さる。夜、竹須夫妻遊びに来る。」

 

共益商社の富永氏がピアノの件で来訪とありますね。何か進展するといいですね。

 

「10月23日(火)晴

朝7時に家を出て足の向く方に行く。洗足池畔―雪ヶ谷―下野部―玉川(多摩川)...。いわゆる中原街道を通る。丸子の渡しを渡らず付近の河岸を散歩す。渡船場は片道4銭とるとのこと、荷馬車等、船に乗せるので、大騒ぎであった。それより玉川の上流に向かう。二子の渡しまでには、下野毛の渡し等、いろいろあった。二子の渡し、すなわち瀬田という所は、玉川電車(渋谷―玉川)の終点で、遊園地、旅館等あり、非常に賑やかな所だ。これより電車線に沿いてー遊園地前―新田―世田谷―駒沢と来たり。右に廻りて目黒方面に向かう。駒沢にてパンを買い、歩きながら食べる。それより遠回りに大岡山に出て、洗足池畔を過ぎ、3時帰宅す。帰宅後又、鈴ヶ森に行き、釣りの様子を見る。本日辻ハツ氏、見舞いに来る。今回の散歩により郊外電車の終点を知る。

〇玉川電車(渋谷―玉川)〇池上電車(蒲田―雪ヶ谷)〇蒲田目黒電車(目黒―丸子。丸子蒲田間は11月1日開通す)夜竹須方へ湯。」

 

玉川とは「二子玉川」のことだと思います。三郎氏は健脚ですね。

 

「10月24日(水)曇り小雨夜晴れ

今日はピアノが来るとのことにて、余は鈴ヶ森の東海道線通りに見に出たが、遂に来らず。多分、朝より雨の降ったため、延期されたのであろう。」

どこの伝手でピアノが手に入ることになったのでしょうか?書いてないのでわからないですが共益商社?

 

「午後、規矩士兄とと共に散歩に行き、規矩士兄は黒澤方を訪問す。」

(黒澤家とはのちの妻、たなかすみこの実家のことです)

あ!あれだ!

たなかすみこ著 『虹色のひらめき...を、あなたも』シンコーミュージック1984年に関連した記載がありました。

(以下引用)

「東京、千葉、神奈川を襲った史上最大の地震関東大震災の数日後、もちろん郵便も全面ストップしていて連絡もとれず、そのように尊敬するピアノの田中先生の身の上を案じていると、玄関の方で人の気配がして、しばらくお庭番の爺やとメイドさんと話声が聞こえたあと、そのメイドさんが姉を呼びにきました。

「このお嬢さんではありません。もっと小さい方です。ここのお宅にはお嬢さんはお一人だけですか?ピアノをやっていらっしゃる方です」

耳を澄ませて聞いてみると、身の上を案じている相手の田中先生の声です。

「私です、田中先生!」

と言って私は夢中で玄関に駆け出ていきました。見るとそこには落ち窪んだ目の疲れ切った様子の田中先生が、足にゲートルを巻いて物静かに立っておられたのです。私は可哀想に、気の毒に、放っておけない、何とかしてあげたいと、自分が弟子であることも忘れて、心から同情してしまったのです。それが、私の田中規矩士への愛の始まり。それまでは先生として尊敬し、教えて頂く受け身の立場だったのですが、この日を境に私はこの人の役に立ちたい、この人のために何かをしてあげたいと思うようになったのです。」(89ページ)

震災が9月1日で、この日記が10月24日なので、そろそろ2ヶ月が経とうとしていました。なので、震災から数日後ではないのですが.....。そこはたなかすみこの記憶違いでしょう。

しかし規矩士は家が焼けてしまって大井町に引っ越し。ピアノが手に入らず苦労をしていました。やはりやつれていたと思います。

そのやつれっぷりにすみこがとても同情してしまって、「田中規矩士先生Love」になっちゃったようです。

 

相生町の角蔵氏4時ごろ来たり。いろいろ遭難の話を母にする。氏は震災当日東京の会社にあり、また、母は付近の菓子屋に行き、家は父及び妻子であったが、妻子のみ下家にいたので、遂に2階の下敷きとなり、父は2階にいたため、助かったのだ。しかも下敷きの時、妻の叫びがあったとのことだが、父はこの場合如何とも出来ず。体一つで危なく避難せりと。尚、妻の母も相生町で圧死せりと。氏は直ちに田舎へ帰った。夕方今村均平氏の死去の報来る。また、高師より規則書来たる。」

 

やはり地震で家が潰れて圧死という話が多いです。