田中三郎の日記

カテゴリーに月ごとに分類してあります。カテゴリーをクリックしてから入ると読みやすいと思います。

8.大正12年9月2日1 神中の周りは火災被害で悲惨な状況。朝鮮人の暴動?長兄敬一無事に横浜に帰る。

9月2日(日)晴

「昨夜より絶えずあった地震の為、眠られなかった。

余は東が赤らむ頃、校庭を出て御所山を見に行ったが、驚いたことには池の坂上より見た御所山、山王山、西戸部、平沼方面は丸裸の焼け野原となっていた。

余は昨日家を立ち退く際、我が家は地震のため傾くも火事の心配はなしと心に想像せしも、今この光景を見て、火の強烈なるに驚けり。

かくて我が家に近寄りたれども、所々に火が燃え居る所あり。如何とも出来ず。

尚又付近には黒焦げとなりたる死人あり。誠に悲惨な有様となっていた。

彼等は近所の人々ではなく、皆岩亀横町、あるいは天神山辺りより山に登り来たりたる人の如く思われた。

死人は加藤重利氏の急坂にも約50名、皆手に所持品を持ち、あるいは子どもを抱え、ひとしく倒れていた。我々が行った時は、死人は鼻血を流し、石垣に寄り倒れ、又は現に身体が焼けつつあるのがあった。

これらの傍らに死人の近親らしき人、近寄りてさめざめと泣き、あるいはこの様子を見て念仏を唱える者あり。

我々は自然、泣かずにはおられなかった。

思うに彼等死者は下町より御所山に逃げれば良しと思いて来たらしく、しかし、三方より出た火の為には身体谷待って逃げ道を失い、焼死したと推定することが出来る。」

悲惨な光景です。言葉がありません.....。

(中略。この中略は後ほど。田中家は残念なことに焼けてしまいました。)

神中校庭にては、関、藤村氏、魚田(県女音楽教師)に会う。

関さんの如きは主人不在の為、夫人一人にて子どもを抱え、神中に避難したるも母乳少なきため人より玄米の粥を得、て、これを飲ます等、見るも哀れなり。

この時分は地震少なきも火事は神奈川ライジングサンが盛んに燃えていた。

時候は実に暑く、我々は困った。

時に時澤家の縁者来たり。昨日の様子を父に聞く。大変心配の様子なりき。しかし3人無事の報あり。

昼過ぎ、敬一兄、東京より無事帰り来たる。東京も大変の由。」

長兄敬一が月島第二小学校より無事に横浜までたどり着いたようです。しかし敬一の妻はまだどこにいるかわかりません。

この当時はまだ電話は普及していないようです。田中家には電話はありません。

 

「昼過ぎ、朝鮮人が数名校庭に現れ、我々に乱暴をした。第三の恐怖がこれである。彼等鮮人は武器こん棒を持ち、およそ数名、体をなして乱暴し、盛んに避難民に向かってピストルを発砲した。我々もまた、在郷軍人連の命令により皆棒きれを持ち、応戦した。鮮人は保土ヶ谷に根城あり、その数千(人)と言われた。将に彼等の為、神中避難地は取り巻かれんとしたが、我々一同防ぎし結果、彼等は逃走した。この際某警部は、朝鮮人と誤たれ、我々のため殺された。この日横浜刑務所の囚人を出して鮮人暴動者を殺さした。」

朝鮮人の暴動のことが書かれています。

私は専門家ではないので、ノーコメントとします。

(これに関する意見、反論は一切受け付けません。これは日記に書いてあったことです。この当時はこれがリアルだったんだと思います。朝鮮半島の方々の差別を助長するものではありません。この部分のみの無断転載も禁止します。)

 

「かくて余の一行は桃井氏の邸宅の損害少なきを幸い、氏の家族、親類の方々と共に庭に避難した。同時に大谷嘉兵衛氏も桃井方に避難されて来た。氏は地震当日東京にあり、急いで横浜に来たりたれども掃部山の氏宅は灰燼となり、誰もいないとの事。その夜、桃井古庭に大谷氏等と寝たれども、鮮人と地震のため常に驚かされた。8時頃横須賀の陸戦隊到来により、避難地よりは喜びの叫びが上がった。この日鮮人は井戸に毒を流し、もしこれを飲めば直ちに死すという惨たる行動をした。また、この日の我々の食事は3度とも握り飯、(?)を桃井氏より得て、命を続けた。誠にに桃井氏の親切なるには、一同深く感じた。不安な二日目は過ぎた。」

 

(2023年12月28日記)

2023年9月、このことを書いた本が出版されました。このことと出版された本を照らし合わせてみました。以下にその記事のリンクを貼ります。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

 

 

 

 

9.大正12年9月2日 2 ヤマハグランドピアノとベヒシュタインピアノ、蓄音機、レコード70枚、和声学原書が灰になる。

9月2日の日記には重要なことが書いてありました。

「さて、我が家を見ればどこが境界やら解らず。哀にもベヒシュタインヤマハグランドピアノの2台は針金のみとなっていた。ああ、残念なる。あのビクター蓄音機及びレコード70数枚、又敬一兄の和声学原書、あるいは余の教科書及び記念絵葉書700数枚、あのヴァイオリンあるいは椅子等は全部灰燼となってしまった。焼けた門前に立った余は一度は悲観したが、直ちに過去を見ることを変えた。トタン板上に焼木で、神中前桃井氏方に避難せりと書いて、門前に置き、神中に帰った。途中吉川君に会い、互いに無事を祝す。」

 

横浜の田中家にはヤマハグランドピアノとベヒシュタインがあったと書かれています。このベヒシュタインがグランドピアノかアップライトピアノかはわかりません。ヤマハはグランドピアノと明記されていました。

 

三郎氏が書いた横浜の家の間取り

ピアノはどの部屋に置いてあったのかはわかりません。そんなに大きな家ではないようです。この家に父、母、長兄敬一、長兄の妻(おそらく)、次兄規矩士、三郎と6名で暮らしていたようです。

たなかすみこ著 『虹色のひらめき...を、あなたも』シンコーミュージック1984年に書かれている田中家の様子。

「私のこの雪見橋の先生も、貧しいながらも才能のあるピアニストというのが最初の印象でした。二間しかない家の大きい方の部屋にピアノが置いてあって、広い敷地のある家に住んでいた私には少々驚きでした。」(78ページ)

次兄規矩士は旧制武蔵高等学校より年俸600円という話があるらしい。この当時の田中家の収入がどのくらいであったかは定かではないが、音楽好きと伝わる田中家、家よりも「ピアノ」「レコード」「蓄音機」「和声原書」という感覚があったのかもしれない。

(何か思いつく話がありましたら、ご教示くださいませ)

10.大正12年9月3日 横浜を離れる。東神奈川駅にて。

9月3日(月)晴

「桃井氏の庭に寝た我々5人は朝食を済まし、一同に別れを告げて大井町(姉の実家)に向かう事とした。途中、池の坂、御所山の一部を通り抜け、天神山より活動倶楽部前、横浜駅と来た。両親は横浜市が一朝にして焼け野原となったこの光景を眺め、驚いていた。横浜駅もめちゃめちゃになり、駅前の惨状は目も当てられず、電線は往来に落ち、人々の通行を苦しめていた。又、半焼となった電車の壁には、何某無事何処に避難せりとか、簡単な文句が白墨で書かれてあった。高島町の大通りは人の波を打ち、老人、子どもの往来には甚だ危険であった。月見橋は落ち、橋下の水は真っ黒にて一種怖ろしき感を起こさした。されば鉄橋を一列になり両親を助けつつ渡ったのであった。高島駅上の大時計は実にこの記念すべき大正の御代の大地震を物語るものの如く静かに我々に12時2分前を示していた。今、我々がこの前に立った時の感は、一種異様で、又おそらくこの時計の停止した目盛りを見る者は、永久に孫子の間に悲惨な現状を物語り、かつ書き伝える事であろう。ああ、一朝にして世の中は一転してしまった。」

 

横浜の惨状。胸が痛いです。

田中家は長兄敬一の妻の実家、大井町に向かうことにしたようです。長兄敬一の妻の実家が無事であったのかはわかりません。しかしこのまま横浜にいても仕方がないと判断されたようです。

 

「我々兄弟は両親を助けつつ文庫を互いに持ち、元気を出してなおも進んだ。神奈川駅もまた大分破壊されていたが、高島山、反町及び東海道線に沿った地は無事である。京浜電車のプラットフォームを下りて汽車線路に出た。この時、線上に小屋を立てていた天理教の信者、親切にも見ずを我々に与え、いろいろ親切に、老人は梅干しとしょうがさえあれば精力が衰えずとて父にこれ等を与え、また飯も用意しあればたくさんに食べられよともてなしてくれた。誠に親切な宗教家としては充分本分を(?)した人々で、一同好意を謝して、過ぎた。さらに一町行くと労働者らしき人、我々に救助握飯を分与する場所を示してくれた。その親切なこと「渡る世間に鬼はなし」の一句、ただちに思い出された。東神奈川駅に達した時、父母は少し疲労した。その時、鮮人の現れた報を聞いて、人々は皆、小屋から出て男は刀、木刀を手にし飛び出してきた。されば我々は難を避くる為、小屋に近寄りたるに偶然榎本氏(ピアノ弟子)の姉と会い、世話を受く。」

 

被災してしまった人々に善意の心遣いが多くあったようです。田中家の面々もその恩恵に被り、ありがたく思って、大井町まで困難な道を歩みます。

 

(この後この朝鮮半島の人のリンチ事件の記事になります。あまり気持ちの良いものではないので、画像でそのまま出します。この問題はデリケートな話です。私はよくわからないので、専門家にゆだねてしまいたいと思います。この画像の無断転載を禁止します。)

「さて、榎本氏(本名安倍銀次郎)のあっせんにより仮小屋にて休むこととした。氏の家は倒壊して母は驚き、遂に死せりとのこと。この駅にて佐藤氏(ピアノ弟子)に会う。姉(榎本氏の姉のことだと思います)の尋ねに「横浜に行ったが見えぬ」と言う。夕食は一同にて握り飯を食す。そのうまいこと、殊にお漬(物)は器物なきため、大皿に入れ安倍氏等と共に飯廻す。夜は氏の言により付近の省線電車に入り露を防いだが、ロウソクを使うことが出来ないため誠に困難した。11時ごろ急に火事と報するものあり。我々一同は狼狽して車より飛び降りる。かくして氏等一同とプラットホーム側の鉄道職員寄宿舎に入るが、驚いたことに南京虫のため眠られなかった。」

 

 

11.大正12年9月4日の話1 東神奈川駅から生麦に行く

9月4日(火)晴

「明け方少し眠ったが直きに起こされた。昨夜の火事を一同に聞くと、神奈川ライジングサンの燃え残りとの事みて、ホッと安心す。朝食は安倍氏と一同と食したが、南京米の飯にて、とても口には入らなかった。余が初めて他国米の味を知った。さて、いよいよ安倍氏に暇乞いし、握り飯を手にして大井町に向かう事とした。その握り飯は又、南京米にて、丸の形をつくり、新聞紙で一つづつ包み、副食にサケを入れてあるのだが、平時はこれらは食するに困難なものも、この時ばかりは、命の糸として手にした。」

この当時のお米がどんなものかはわかりませんが、南京米というのは外米のことでしょうか?外米は粘り気が少なくてぱさぱさしているので、おにぎりには向かないかと思う。

(適切に調理をすればとても美味しいのですが、この当時外米、例えばジャスミンライスやバスマティライスをきちんと調理する方法を知っている日本人はいたのかしら?チキンビリヤニは美味しいですね。)

 

東神奈川駅を去った我々5人は、鉄道線路の枕木を踏みつつ進んだ。八王子線(現在の横浜線のことだと思います)と東海道線の交点は、ひどく損ぜられていた。普通なら線路の上を歩くことは厳禁だが、今はそれも何処へやら、京浜間の避難民等で人波を打っていた。子安は火事で大半、焼け野原となっていた。しかして子ども等は何事も知らず、線路に停止せる省線電車に乗り嬉喜しているのが、一層対照の妙を得ていた。

さて、段々と鶴見に近くなると暑さも加わり、体も疲れて来た。時々朝鮮人の線路に放棄された死体を見て、一時は疲労を忘れたが、又真きに元に帰るのであった。あるいは空高く飛ぶ飛行機にしばらく見とれるのであったが、それも暑さにかなわなかった。」

 

横浜の気象台の観測は欠測でしたが、東京の気象庁の記録はありました。最低気温24.5度、最高気温31.6度。カンカン照りの線路は暑いし、歩きにくいしで困難な道中であったことが察せられました。

気象庁|過去の気象データ検索

 

「生麦に来た時に、池谷菊次郎方を思い出した。寄って氏を訪問することに決めた。この辺りは割合に地震の程度もよく、瓦が少し落ちた位であった。氏方に着いた時、菊次郎氏母は喜んで我々を迎え、心より一同無事を祝してくれた。氏方には他に親類の方が見え、混雑の様子であった。さて我々兄弟は両親をひとまず池谷方に託し、大井の姉の安否を尋ねんと急いだ。それは両親のとても大井町に行くことの不可能を知ったからだ。我々は握り飯を戴き、前の安倍氏の分(阿部氏からいただいた握り飯のことだと思います)と一所にして、生麦を去った。その時は多分11時頃であったろう。」

 

疲れ果ててしまった両親を生麦の知人(多分)にお願いをして、敬一、規矩士、三郎の3人は大井町へと急ぎました。

 

12.大正12年9月4日の話2 生麦から大井町まで

「鶴見の総持寺には鮮人が多く居るとのこと、だが一般にこの辺りも良好。鶴見もほどなく過ぎて川崎に近づいた。線路の側に田舎女の梨を売っているのが目に付く。川崎のマツダ電気会社の一棟は全壊の様子であった。」

 

このマツダ電気は、現在の川崎にある東芝川崎事業所のことではないかと思う。

こちらのウェブサイトにマツダランプのこととして書いてあります。

museum.nyk.com

「六郷の長鉄橋も無事に通ることが出来た。橋の向こうから汽車が、それは貨物列車が出るとのこと、にて、我々は急いだ。一番後車に乗る。もちろん無料だ。今か今かと出発時間を待つうちについに3時となった。その間、人々は時間の誤れるを怒って車より降りる。また乗ると言う騒ぎにて、女子どもにはとても安心していられる様ではなかった。あちらの隅で、ワッと悲鳴をあげるかと思うと、この方にその反動が来るという始末。まるで芋を洗う様であった。3時過ぎに出発の汽笛がなる。丁度田舎の私立鉄道の発車する如しだ。蒲田、大森、大井の各駅には一々止まるが、プラットホームでないので、実に降りるには危険である。ついに品川終点まで乗った。品川東京間の未だ見込みなしとのことだ。」

(三郎氏の絵)

 

「品川からいよいよ八ッ山、青物横丁とあの狭い危ない通りを通っていった。各商店の前には接待の水が並べられてあった。通行人の心を慰めてくれた。通りはまた救済自動車、自転車、馬力等で押すな押すなの騒ぎであった。仙台坂を上った我々3名は、我知らず××家(プライバシーを尊重して伏字にします)に吸い込まれた。玄関には女の下駄があった。姉はいたのだ。しかも無事。いろいろ話しの結果、我々が着いた4時の30分前に家に着いたとのこと、非常に困難した物語があった。いよいよこれで田中の家族6人は無事に揃った。実にこの如き嬉しく喜ばしいことはない。もし一人でも不明の者があれば、その苦痛、いかばかりかであったろうか。その夜は安心して床についた。xx家(プライバシーを尊重して伏字とします)は××(戸主)、茶の先生、母で(と、だと思います)一同7人の大人数となったわけだ。これで怖ろしい4日間の大地震の物語は終わった。」

【1923(大正12)年関東大震災- 火災被害の実態と特徴 -】

https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou040_12-13.pdf

このPDFに火災が発生した地域が書いてあります。これによると神田も火の海になってしまったようです。祖父は「北は火災で逃げられず、南に逃げた。」と言っているので、このPDFの地図でよくわかります。

【関東大震災の火災被害と写真映像】

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/seika/302s/132-146.pdf

こちらのPDFには皇居前のお堀端に避難した人々の大変なごった返した写真もあります。

 

13.大正12年9月5日から7日まで 家族全員が東京府荏原郡大井町庚塚に移住。

「9月5日(水)晴

戸外が騒がしいので目が覚めた。往来は救助自動車や避難の人々で賑やかであった。早く朝食を済ませて再び生麦の父母の所に行く。勿論徒歩。池谷氏方は親類の人などで賑やかなり。しかし父母は客室に招待されていた。その夜はここで一泊す。」

 

長兄敬一の妻の実家が無事であることがわかったので、三郎氏は生麦の両親の元に行ったようです。この時、敬一、規矩士は同行したかはわかりません。

 

「9月6日(木)晴

朝7時半、横浜の旧宅地に行く。東神奈川にて榎本(ピアノ弟子)氏の圧死せるを安倍氏より聞く。

 

さて、旧宅地に池谷方にて作れる立退きの立て札を立てる。次に相生町の内田粂太郎方を訪れる。丁度角蔵氏及び両親焼き場にいた。妻と子ども二人圧死せりとのことにて、皆、悲痛の状なり。ここにて本牧北見氏の一同無事を知る。それより横浜正金銀行の光景を眺む。門前は実に怖ろしき死体の山となっていた。また側の石塀をのぞき見たるにそこここに腸や脳の外部に黄色く現れた焼死体あり。とても悪臭にて一秒とも見ていることが出来なかった。これより馬車道を一直線に吉田橋を渡り伊勢佐木町に出る。橋下は石油にて真っ黒く、その間に死体無数にあり。中には馬犬の如きの獣もあった。伊勢佐木町通りは全部焼け野原となり、これより水道山、あるいは山手方面が楽に見える。長者町の家はすぐ近くの山の家に避難して無事であった。日本橋電車線は亀裂甚だしく、それに地面が低下していた。再び吉田橋に来たり大江橋を過ぎて旧宅御所山に寄る。時に日下村の吉蔵氏に家の前で会い、互いに無事を話し、かつ大井町××方に避難せるを言う。吉蔵氏は役場用にて横浜に出張せりとの由、3時ごろ帰途につく。相変わらず横浜駅高島町通りは人々の混雑甚だし。その夜生麦に一泊。時々小地震ありて驚く。」

 

旧宅のあった横浜に行ったようです。悲惨な状況が書かれています。何も言えない.....。

この日は生麦に一泊しました。

 

 

「9月7日(金)晴

朝6時頃大井に帰る。これより大井と生麦の間を往来せしも、家事忙しきため記すことを得ず。その間、大井の××家にて兄弟3人にて夜警をなす。絶えず小地震あり。(?)る世間さわがし。品川~横浜間は先に危なく汽車開通したりたるも12日よりは更に子安~品川間(六郷徒歩連絡)の京浜電車開通す。これ皆工兵隊の働きによったのである。

これより父母は大井の竹須喜久止方に移ることとなる。時に12日の昼頃。

この頃より郵便貯金の非常払い(ただし1日一口30円以内)あり。我々は時々出しに行く。16日竹須方より現住所(東京府大井町庚塚4879)に移る。がしておいおい家財道具増加し、また見舞品を受け遂には戸棚一杯にならんとす。10月となりて世間も静まりいよいよ、将来に光明あるかの如く思われてきた。ああ考えるとまるで夢の如しだ。

第1回慰問品

9月30日庚出安全組合総本部にて配給。寄贈者 岐阜県土岐郡稲津村加納鞭次郎氏

慰問袋 缶の中に焼いた大豆在中 梅干し少々

手ぬぐい、歯ブラシ、楊枝、浅草紙

味噌 

梅干し

ジャガイモ、素麺

 

第2回慰問品

10月3日  寄贈者 大阪市東区淡路町5丁目10番地上田商店内 河西マン

慰問袋 着物 氷砂糖

タオル、せっけん箱(花王石鹸在中)ハガキ 消毒箸、薄紙

茶碗2個、軍用パン1袋、味噌、かんぴょう、するめ1枚、福引.....金賞当たる」

 

あの大地震から15日後の、9月16日、結局横浜ではなく大井町に住むことになりました。両親も生麦から結局大井町に移り住みました。

新しい家になっていろいろと整える必要があったようです。何かと忙しく、結局この後は10月になって新しく書かれることとなりました。

慰問の品々が届けられたようですね。岐阜県土岐郡稲津村は現在の岐阜県瑞浪市のようです。大正時代の土岐郡の写真。村上海一写す。

浅草紙って?

現在のティッシュペーパーかトイレットペーパーのことのようです。なるほど。

kotobank.jp

14.大正12年10月7日から10月11日まで。規矩士武蔵高校に出校。共益商社の富永氏に会いに行く。

(多忙だったようで1か月空いてしましました。この後はコンスタントに日記をつけています)

「10月7日(日)曇り

本日役場吏員原小学校に出張して救助米を受くべき避難民の貧富の程度につき質問す。結果余の分は削られて父母2人分となる。救助米件は役場3時取らる。なお、この小学校にて第3回の配給品あり。

慰問袋(大阪上野商店)

箸、ビスケット、歯ブラシ、雑記帳、鉛筆、紙、タオル、せっけん、クラブ歯磨き、下駄、おたま在中。

浅草紙

おたま

10月8日(月)(天気が書いてないです)

井戸水は応急水質試験の結果、良と判定さる。今、それを次に示すと

応急水質試験成績

所在地 大井町庚塚 田中敬

1.悪疫予防のため水はすべて煮てお飲みなさい

1.井戸水は消毒なさい。

1.消毒薬品は当所で無料分与します。

大正12年9月

神田区和泉町内務省東京衛生試験所

 

規矩士兄、武蔵高校に出校す。山本教頭より洋服1着寄送さる。姉も学校より着物、タオル等をもらう。

 

今日、甘粕大尉及びその部下盛り憲兵曹長は去る9月16日午後8時過ぎ麹町区大手町1丁目1番地憲兵司令部応接室において、首を絞めて殺し、栄の妻、伊藤野枝および甥、橘宗一の3名を同時に井戸に投ぜりと。」

 

designroomrune.com

「10月9日(火)曇り

井口氏夫婦より見舞手紙来る。神戸に避難せりとのこと。3時より庚出総本部にて慰問袋の分配あり。今回はくじびきにて配給品を受け取る

大慰問袋(第3回と同じ大阪上野商店)

小慰問袋 草履、雑記帳、紙、人参飴、歯ブラシ

古着、健胃固腸丸 茶碗 梅干し おたま 浅草紙」

 

この井口氏は規矩士の弟子と伝わる井口基成氏の親族ではないと思います。井口基成一家が、神戸に避難をしたということは書いてなかったと思います。違う人だと思います。

 

「10月10日(水)曇り小雨

朝、安藤喜八郎氏より妻タケ氏の死去の手紙あり。明日、午前8時より10時までの間神奈川新町良泉寺において告別式執行の由、タケ氏は震災以来腸チフスにて萬治病院に入院し到るも、5日急に死せるなり。新しき救助米券、竹須氏より配布あり。余の分は従前と同じく削られずにあった。即ち3人分1日6合なり。

 

「甘粕事件は更に困窮に入り、宗一の絞殺者は一時奇怪と伝えられるも今日朝刊において鴨志田上等兵とわかる。夕より雨降り出し、暴風雨となる。」

 

台風が来ていたかもしれません。22時ごろからかなりの降水量です。

気象庁過去の気象データ】

https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/hourly_s1.php?prec_no=44&block_no=47662&year=1923&month=10&day=10&view=p1

 

「10月11日(木)晴後曇り小雨

朝、父は神奈川の安藤氏の告別式に出席す。帰途、高木氏、田島氏(酒屋)に会えりとのこと。

規矩士兄は大井水神下の共益商社仮事務所を訪れたるも、富永氏不在。

この共益商社の富永氏というのは誰なんだろう?共益商社という楽器店があり、

1887(明治20)年ごろ、山葉寅楠の作ったオルガンを扱い出したようですが、結局1909(明治42)年、日本楽器に買収されてしまいます。共益商社の場所は現在のヤマハ銀座店です。しかし共益商社という楽譜?楽器店のようなものはあったらしく、こんな情報も。

noblogblog.blog.shinobi.jp

1919年(大正8年) 京橋区竹川町 共益商社 ※官報. 1919年07月07日 楽器の広告

https://dl.ndl.go.jp/pid/2954189/1/16

こちらのバイエルは萩原英一編。出版社は共益商社。1924年大正13年

国立国会図書館デジタルコレクション

 

推測ですが、共益商社は関東大震災で被災?(住所が京橋区竹川町となっています。)大井水神下に仮事務所を作って業務を再開していたのかもしれません。その仮事務所に規矩士がピアノ購入か何かの相談をしに行ったのかもしれません。

 

「竹須寅之助氏、午前中家に来たり新聞を見る。午後2時より寅之助氏、規矩士兄3人にて洗束村に行き、田園都市、洗足池を見る。途中洗足池畔の勝海舟の墓を参詣せし時、規矩士兄は音楽学校の生徒に会う。その生徒の両親は横浜南太田町にて焼死せりとの由。洗足池は実に美的で周囲には所々に文化村の如き家あり。一隅に遊覧亭及び日蓮上人の銅像あり。今は銅像の修理中で、職人が大勢いた。池にはフナが釣れると見え、竿を垂れている人がある。6時ごろ帰宅。母、少し風邪を引く。」

 

音楽学校の生徒の家族が震災の犠牲となってしまいました.....。