田中三郎の日記

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159.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。2 三郎氏は横浜第一中学校に避難をする。

(2023年10月9日投稿)

(続き)

田中家に関係するのは戸部警察署。

地震直後は半壊。しかし1日午後4時に焼失。焼失までに時間があったので、重要書類を搬出した上で、藤棚派出所に署員一同で避難。(49ページ)

 

そして田中家の人々の動き。

田中家は御所山の丘陵地にあったので、火災が迫ってくるまで幾分か時間がありました。戸部警察署と同じように、避難をするまで時間がありました。そして三郎氏の日記には「地震による建物の倒壊」の様子が書き記されています。そして田中家も家が傾き、そしてすぐに近隣より火災が発生している模様が書いてあります。火災を避けるため、近隣の人の忠告で、一大決心をして近くの神奈川県立横浜第一中学校校庭に避難をすることにしたのです。

この時、田中家はこの時代の人々と違って珍しい行動をしています。避難に家財道具を持って出ていないのです。

関東大震災のころ、避難には家財道具を持って行くことが多かったようです。関東大震災を記録した映像を見ると、大八車に多くの家財道具を持った避難民が多く映っています。

田中家が持ち出したのは、「書類、印、免状などが入っている文庫」(文庫とは書類ケースのようなものだと思います)のみです。

元小学校教員(訓導だったかどうかはわからない)の父、小学校訓導、旧制高等学校講師の長兄、同じく旧制高等学校講師、旧制専門学校講師の次兄、と教育関係の田中家は、「免状があれば何とでもなる」という意識があったのかもしれません。田中家は以前火事で焼け出された経験があり、その時、「免状さえあれば」という経験がこの時も生きたのかもしれません。おそらくこの免状は「教員免許状」「隠退料」などでしょう。

「文庫は祖父の作りしもので、全ての書類、印、免状等入っている。それで御所山の火事の時、安全にこれを出す事が出来たが、この度の震災においても母の手によって無事に運ぶことが出来たのは実に僥倖と言うべきであるか。」(田中三郎の日記より。)

最も田中家の家宝は「ベヒシュタイングランドピアノ」だったり、海外から取り寄せた「和声学の原書」だったり、レコード類、楽譜でしょう。

とくに「ベヒシュタイングランドピアノ」は大事なもの。しかしグランドピアノは重いので持ち出せません。

ピアニストであった規矩士兄は、横浜第一中学校に避難をする時に「グランドピアノは駄目かもしれない」と覚悟を決めたと思います。悲愴な覚悟です。

三郎氏は「家は傾くけど、火事は大丈夫かも?」と楽観視もしたようですが。

田中家の面々がなんとか横浜第一中学校(三郎氏の日記には神中と書かれています)の校庭にたどり着いた時は、午後4時ごろであったようです。火はますます勢いを増し、校庭に迫っている様子が日記にはありました。余震はずっと続いています。『それは丘の上から始まった』によると戸部警察署が焼け落ちたのが午後4時ごろと書いてあります。

大混雑の校庭にて、異様な緊張感の中、この日の田中家の一日は終わりました。

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明くる2日、三郎氏は自宅付近にいったん戻っているようです。この時は一人で行ったのか、一緒に避難をした次兄や父と行ったのかはわかりません。自宅は全焼していました。三郎氏はグランドピアノは針金になっていたと書いています。

三郎氏の日記より

「さて、我が家を見ればどこが境界やら解らず。哀にもベヒシュタイン、ヤマハグランドピアノの2台は針金のみとなっていた。ああ、残念なる。あのビクター蓄音機及びレコード70数枚、又敬一兄の和声学原書、あるいは余の教科書及び記念絵葉書700数枚、あのヴァイオリンあるいは椅子等は全部灰燼となってしまった。」

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周りには逃げ遅れた人々の焼死体があり、悲惨な光景となっていました。

長兄は地震発生時、勤務先の東京市月島第二小学校にいました。昼過ぎ、この長兄が東京から戻ってきました。田中家が横浜第一中学校に避難しているのは、おそらく口コミで聞いたのでしょう。とにかく3兄弟がそろいました。

そして昼過ぎにとんでもない事件が発生したのです。