田中三郎の日記

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160.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。3「朝鮮人が攻めてきた?」

(2023年10月10日投稿)

9月2日昼過ぎにとんでもない事件が横浜第一中学校にて発生したのです。

三郎氏は書きます。

「昼過ぎ、朝鮮人が数名校庭に現れ、我々に乱暴をした。第三の恐怖がこれである。彼等鮮人は武器こん棒を持ち、およそ数名、体をなして乱暴し、盛んに避難民に向かってピストルを発砲した。我々もまた、在郷軍人連の命令により皆棒きれを持ち、応戦した。鮮人は保土ヶ谷に根城あり、その数千(人)と言われた。将に彼等の為、神中避難地は取り巻かれんとしたが、我々一同防ぎし結果、彼等は逃走した。この際某警部は、朝鮮人と誤たれ、我々のため殺された。この日横浜刑務所の囚人を出して鮮人暴動者を殺さした。」

 

これは一体何?

中の人は2023年9月2日の投稿に

「素人の私に何が言えましょう。検証は専門家の方々にお任せしたいと思います。専門家の方、どうぞよろしくお願いいたします。」

と書きました。

この本『それは丘の上から始まった』はこのことの専門家による解答の一つと言えそうです。本を見ながら私なりに少し書いてみようと思います。

まず、「朝鮮人中国人虐殺事件」はどのように発生したのか?

9月1日の地震の後、横浜では治安機能、行政がマヒしました。いわば無法地帯となってしまったのです。

焼け出された人々が「緊急事態」ということで、商店にあったちょっとした食べ物を「ネコババ」していることはあったようです。三郎氏の日記に父が「店先にあった羊羹をもらってしまった」という話を書いています。

生真面目な三郎氏は「誠に一朝にして、あさましい姿となったものだ」と書いています。

この異常事態の中、南部の丘陵地ではとんでもない噂が広まりつつありました。

この南部丘陵地は現在の横浜市南区のあたりのようです。本には「平楽の丘」という地域の名前が挙がっています。「平楽」「唐沢」「打越」など。(中の人は横浜は詳しくないので、間違えていたらすみません)

この地域は丘陵地の下には職工や労働者が多く住み、丘陵地には勤め人、外国人住宅とどちらかというと「ハイソ」な人々が住んでいました。普段はほとんど交流はありません。(77ページ)

しかし丘陵地の下の市街地が火災で全焼。他に市内で焼け出された人々がこの丘陵地を目指して避難をしてきました。丘の上は元々の住民と避難民で雑多な人々であふれかえっていたかと思います。

この時代には身分差別があり、現代の私たちのような

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(日本国憲法より)

という意識はありません。

近くの中村川に面した場所に神奈川県揮発物貯庫というものがありました。そこには石油、揮発油など発火性のあるものが貯蔵されていて、これが夕方から炎上してしまいました。

朝日新聞記者河西春海は書きます。

「四尺位の鉄塔の揮発油へ火が入ると、それは物凄い火炎を吐きながら、空高くくるくると躍り上がった。吐き出す炎が尽きると風を切って墜落する。普通の石油缶などはポンポンポンと連続的に連射砲のような爆音を立てながら、煙火のように空へ跳ね上がる(現代仮名遣いに直しました)」(78ページ)

余震が続き、停電で真っ暗の中、それは恐ろしい光景だったでしょう。人々は恐怖と不安の中、見つめていたと思います。

これに加えてもう一つ不穏な出来事が。それは横浜刑務所から囚人が解放されたことです。この横浜刑務所はこの地域からさほど遠くない場所にありました。刑務所の建物が全焼したので、1日午後6時に1000人ほどの囚人を開放。これはこの当時の法律では合法です。この囚人らが強奪に走ったという記録もあるそうです。

この「囚人開放」の報に一般民衆が武器を持って備えたということも起きました。そして治安が崩壊したことによって、残存家屋への略奪行為があったことも記録に残っているそうです。人々の恐怖や不安はいやおうなく高まっていました。(78ページ・79ページ・80ページ)

そこに山口正憲という国家社会主義を標榜する社会運動家が「政府の援助が届くまでの間、持てる者、富裕の者から奪って困窮する被災者に配るべき」と演説。「横浜震災救護団」を結成、それの決死隊が商店に対して略奪行為をしました。「横浜震災救護団」が結成されたのが、1日午後4時だそうです。(80ページ・86ページ・87ページ)

横浜の南部丘陵地は大変な社会不安の只中に置かれました。

こんな中、この「平楽の丘」では

朝鮮人が攻めてくる」「朝鮮人が暴れている」

という流言が始まったとされています。この平楽の丘から根岸町相沢、山元町に伝わったのが1日午後7時ごろなので、平楽の丘ではそれ以前に流言が始まったと考えられるそうです。(81ページ)

そして人々は武器を手にしての警戒が始まりました。

『市震災誌第三冊』に納められた「長者町郵便局報告」には1日夜の平楽の原で、

「突然警報が来た。曰く『不逞鮮人2000名が本牧からこの方に押し寄せてくる。棍棒でも用意して応戦せよ。殺しても構わぬ』と。原はものすごい叫びでどよめいた」

とあるそうです。(102ページ)

そしてこの付近に住んでいた朝鮮人労働者たちが襲われて犠牲になってしまいました。

(鮮人というのは良くない言葉ですが、三郎さんの日記には「朝鮮人」と「鮮人」と両方書かれています。この記事はオリジナルの表記に従って両方書きました。差別を助長するものではありません。)