田中三郎の日記

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161.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。4 流言は北部丘陵地、そして東京まで広がる。

(続き)

2023年10月11日投稿

そしてあくる朝2日午前10時ごろ、伊勢佐木署で「不逞鮮人襲来し、強盗、強姦、放火、略奪等を敢行」という流言が伝わる。

2日午前11時ごろ、山手本町署、戸部署に流言が伝わる。自警団が組織される(33ページ表より)

朝日新聞記者河西春海氏が北部丘陵地で流言を聞いたのは2日午後。

河西春海氏の体験記より。

「水道山(北部丘陵地)に歓声があった。ポンポン...ポンポン...。ハッと思うとそれは銃声なのだ。どこで放って何の方向に向かっているかわからないので、銃丸はどこへ飛んでくるかわからないのだ。10発、20発とそれはだんだんに増えていく。この銃声は更に人々の心を引き締めた。(現代仮名遣いに直しました)」(40ページ)

市内中学校には訓練用の銃器があった。横浜第一中学校の銃器も紛失、あるいや貸与されている。(41ページ)

2日県警察部の西坂課長の証言。

東京で関係各所に面会などをして内相官邸に戻る夕刻、東京でも「流言蛮語が頗る急速に伝えられたものと見え、いたる所殺気が充満している」(現代仮名遣いに直しました)(37ページ)

2日午後8時、内相官邸を出発。大森署に向かう。自警団に度々止められる。大森署からは徒歩で進む。

「この地一帯は、鮮人騒ぎは殆ど頂点に達し、警察官の懇諭に反抗しつつ暴戻の態度に出ていったのは、まことに苦が苦がしきことであった」(37ページ)

真夜中に通過した川崎、鶴見も同様。銃声、叫び声、半鐘、ラッパの音が聞こえる。

2日になって急速に「流言飛語」が飛び交っているのがこれらのことからわかりました。

この不穏な空気の中、田中家が避難をしていた神中、「横浜第一中学校」校庭で事件は起きたのです。

中島徳四郎(西戸部在住)手記『遭難と人心騒擾に関する実見記』には要約するとこのような記述があるそうです。

「横浜第一中学校裏門で繰り広げられた虐殺について書き残す。一刀を浴びせたのは検問の在郷軍人。重傷を負わされた男は誰何に対して要領よく答えられなかった。日本人だった可能性もある。そもそも不逞者である証拠はない。

民衆も平然と暴行、虐殺を実行。凄惨な虐殺が公然と何のためらいもなく行われた」(42ページ)

この中島徳四郎さんの書いたことと、ひょっとしたら三郎氏が書いたことは同じ事件かもしれません。

ただ三郎氏は「鮮人暴動者を横浜刑務所の囚人が殺した」と書いています。

南部丘陵地から来た流言が北部丘陵地の横浜第一中学校にたどりつくまでに「伝言ゲーム」でかなり変質してしまっていることがわかりました。

山崎紫紅(戸部で被災)『遭難記:四人の骨を拾う』

朝鮮人が来襲するといって、代わり代わり鉄棒は竹やりを持って寝ずの番をする。怪しいものを見ると言い訳も聞かず撲殺する。私は思う。地震、火事の恐怖は非常なものである。しかもその災害に原由して生ずる人間の心の奥を発揮する。その残忍さは実に実に自然の破壊よりも一層の恐怖である」(現代仮名遣いに直しました)42ページ

朝鮮人と見れば暴行、殺傷という事態となり、自警団の横暴や誤認殺人はいたるところでエスカレートしたそうです。

この朝鮮人とみなした人の中には、朝鮮人でない人もいたと思われます。

三郎氏が書いた虐殺の様子。残酷かと思い日記本文には掲載しませんでしたが、こちらでは出します。

三郎氏は「恐ろしき刹那」と書いています。

(鮮人というのは良くない言葉ですが、三郎さんの日記、そしてこの本『それは丘の上から始まった』に書かれている当時の記録には「朝鮮人」と「鮮人」と両方書かれています。この記事はオリジナルの表記に従って両方書きました。差別を助長するものではありません。)