(2023年10月8日投稿)
2023年9月、『それは丘の上から始まった』という本が出版されました。
後藤周著:加藤直樹編『それは丘の上から始まった』ころから 2023年
2023年はあの関東大震災から100年。いろいろな検証が多く行われ、関東大震災時の「朝鮮人、中国人虐殺事件」の検証も多く行われました。
この本は、その横浜における関東大震災の時の「朝鮮人・中国人虐殺」のことを書いたノンフィクションです。
著者のことを書いたネット記事があったので、貼ります。
さて、「田中三郎の日記」にもこの「朝鮮人・中国人虐殺事件」と思われる話が多く書かれています。
いったい何があったのか?
この疑問にこの本はかなりのことを教えてくれました。
このことを中の人が「田中三郎の日記」と照らし合わせてまとめてみました。
(中の人は歴史に関しては素人です。素人故に勘違いによる間違いもあるかと思います。ご容赦ください。そして間違いがありましたらご教示いただけると嬉しいです。)
まず、この本に書かれていたことを時系列で書き直してみます。(ページは『それは丘の上から始まった』の中の書かれているページです)
1923年9月1日11時58分関東大震災発生。
地震の規模を表すマグニチュードはM7.9。震源に近い横浜市は震度5強から6であったそうです。
そしてちょうどお昼時。この当時は炊事はかまどや七輪といった直火であったので、あっという間に被災地全域から火災が発生しました。
三郎氏の日記によると、田中家でも「1日なので赤飯を炊いている真っ最中」だったようです。この時代、1日には赤飯など豆の入った赤いご飯を食べる風習があったようです。
横浜市内228か所から出火。(23ページ)市の中心部は壊滅。行政、治安機能のマヒ。中央との通信連絡手段途絶え、孤立。
神奈川県庁、横浜市役所1日に焼失。
県庁、市役所の幹部たちは横浜公園に避難。しかし横浜公園も火に囲まれてしまう。(23ページ)
罹災人口割合:横浜市5.96%、東京市3.03%。(24ページ表)
これらのことから関東大震災は東京よりも横浜の方が人的被害が多かったということがわかりました。
横浜の海側は脆弱な埋め立て地で地盤が悪く、液状化現象で水が噴き出し、建物も倒壊しました。市内は火災被害も甚大で、焼失を免れたのは市街地周辺の丘陵地と、1901年に横浜市に編入された神奈川町から保土ヶ谷町に至る東海道沿いの地域だけでした。(23ページ)
安河内麻吉神奈川県知事は伊勢山の知事公邸に向かうが公邸焼失につき、焼け跡で野宿。
神奈川県警察部の森岡二朗警察部長は港に停泊中の「コレア丸」に避難。船の無線電信を使って大阪府、兵庫県知事、千葉県、茨城県警察部に救援要請、内務大臣への伝達依頼。
横浜市長不在のため、芝辻正晴助役が指揮。しかし「県知事も警察部長も何をしているかわからない。情報がない」(中の人要約)と述べたそうである。
警察も大打撃。市内7か所の警察署のうち建物が残ったのは神奈川署のみ。戸部署と寿署はなんとか避難に成功して、どうにか仮庁舎を設置。残りは壊滅してしまいました。(25ページ)
この当時横浜には軍隊はありませんでした。陸軍は東京と一緒だった。しかし震災で電話が断絶し、鉄道は不通。軍隊の即応展開は出来ず(62ページ)
神奈川県知事と内務部長は伊勢山の知事公邸の焼け跡に、警察部(現在の神奈川県警)の課長たちは横浜公園に、警察部長はコレア丸にと3か所に分断され、連絡が取れない。被災した横浜市役所は横浜公園に避難したが、
「情報がない」とどうしていいかわからず。(勝手なことは出来ないから)
震災当日の1日は行政、治安機能はほぼマヒしてしまいました。
2日午前3時、県警察部の西坂勝人高等課長と野口明警務課長の2人は横浜公園の避難先を出て、伊勢山の安河内知事を訪ね、軍隊派遣と食糧供給を政府・陸軍に要請する了解を得て、伊勢山の知事公邸から徒歩で(東海道線が被災していたから)東京に向かったのは2日午前5時。東京で陸軍省、第一師団、内相官邸(内務省臨時事務所)、首相官邸を廻って内相官邸に戻る。2日午後8時、内相官邸を自動車で出発。大森警察署に向かう。大森警察署からは徒歩。9月3日午前3時、西坂課長らは伊勢山の知事公邸着。報告をする。そしてやっと仮県庁で知事、部課長の対策会議が開かれたのが9月3日午前7時。午前11時に最初の陸軍部隊100名到着。(26ページ、35ページから38ページ)
やっと行政が動きだしたのが震災2日後の9月3日。震災発生9月1日午後から、この9月3日まで横浜は無法地帯となってしまいました。
(続く)