田中三郎の日記

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169.(余談)2023年11月、横浜にあった元田中家に行く。

(2023年12月28日記)

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の日まで、三郎と家族は神奈川県横浜市西区に住んでいました。現在、そこの最寄り駅は市営地下鉄高島町駅京急本線戸部駅といった所。、横浜からバスの便もあるようです。

田中三郎の日記には、当時田中家が住んでいた家の地図が書かれていました。

2023年11月、中の人は横浜に所用があったので、帰りに寄ってみました。

そして現在の「元田中家の様子」を動画にまとめてみました。

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(この日は11月とは思えないほどの暑い日だった。中の人は半袖を着ていた。)

次兄、田中規矩士の妻、たなかすみこが書いたものによると、「田中先生のお宅は、雪見橋電停(路面電車の停留所)から坂を登っていった」とのことです。

大正時代は日本中に地下鉄はまだありませんでした。日本の地下鉄第一号は、東京です。1927年(昭和2年)のことでした。バスはどうだったのかな?そんな時代なので、大正時代にはどこに行くにも路面電車でした。

 

田中家には、雪見橋電停より岩亀横丁を通り、戸部通りを超えてこの当時は八百屋のある道を入って、坂を登っていったのでしょう。日記によればこの戸部通りには薬屋や蕎麦屋があったようです。この薬屋と蕎麦屋は現存していました。

この横浜の家には、三郎の長兄敬一、次兄規矩士も一緒に住んでいました。

この家で次兄、規矩士はプライベートレッスンをしていたようです。三郎の日記によれば、あの関東大震災の日もプライベートレッスンの日で、地震発生当時はレッスン中でした。

雪見橋からの坂道はおそらく後のピアニスト、桐朋学園音楽部門創立者の一人である井口基成氏、(中の人の勘違いです。井口基成氏が田中規矩士にプライベートレッスンをお願いしに行ったのは、1924年2月のことだったようです。つまり彼は横浜の家にはプライベートレッスンには行っていないことになります。お詫びして訂正します。2024年3月1日)

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基成氏の元妻で、ピアニスト、東京藝術大学教授として多くのピアニストを育てた井口秋子氏、元東京音楽学校ピアノ科教授で、戦後は世界的に演奏活動をしたピアニスト豊増昇氏、そしてのちの妻たなかすみこ、他、大正時代の規矩士の門下生たちが、

「今日のレッスンはうまく弾けるかなあ。ドキドキ」と思って登り、

「よし!うまく弾けた!褒められた!」「いまいちだったけど、もっと頑張る!」「全然ダメだった。しょんぼり」と悲喜こもごもな想いで坂を下りたことでしょう。

 

次兄規矩士の妻、すみこの思い出。

「田中先生の(規矩士のこと)所にわざと楽譜を忘れてくるの。そうすると取りに戻らなければならないから、先生のお顔が2度見られるのよ。田中先生は怒ったけど。でもね、私は嬉しかったの。」

次兄規矩士に「一目惚れ」をしたすみこ。(本人すみこがそう言っていました。)「田中先生」のお顔を見たさに、この坂を何回も登ったり降りたりしたかもしれませんね。

 

そしてこの道はあの関東大震災の日、市内で焼け出された人々が焼け残っていたこの坂の上の丘を目指して、必死に登った道でもありました。しかし火の勢いはすさまじく、残念なことに坂の途中でたくさんの人が焼死してしまいました。三郎の日記にはそうした光景も書かれていたのでした。

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