田中三郎の日記

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70. 大正13年2月26日 2 井口基成登場!三郎氏は自分で天丼を作った。

夕方井口基成といえる中学生、分教場の宇佐美教師の紹介にて規矩士兄にピアノ教授をたのみに来訪さる。氏は日曜日も本日も音楽学校に規矩士兄を捜しに行ったと、あいにく規矩士兄は留守で、父が応対す。氏は神田猿楽町に住み、中学3年生なるも将来音楽学校受験希望と。西洋菓子を下さる。

余は水神下の魚屋に天ぷらを80銭買いに行く。そして初めてどんぶりに入れて食す。甚だうまく出来た。これなら安便に作られる。夜、中西氏稽古に来たる。規矩士兄は汽車に乗り遅れたので、少し遅くなった。また、奥井英十郎氏来訪され、知人にヴァイオリンの教授を願う者ありとの話をさる。竹須方より湯の通知あり、父は行く。今朝、洋服屋のかみさん母の着物(コート)のことで一寸来たる。今日の夕刊によると

(またまた新聞書き写しです。画像にて)

井口基成登場です!

井口基成の自伝にも「宇佐美ための紹介で規矩士先生に習うことになった」と書いてあるので、ほぼ事実でしょう。宇佐美ため先生は、井口基成の妹、井口愛子の先生でした。宇佐美先生は「基成くんは男の子だから、男の先生がいいわね」ということで、規矩士先生を紹介したそうです。

井口基成に一番初めに会ったのは、規矩士兄ではなく、父の敬義氏だったようです。彼は大正13年4月に中学4年生になります。大正14年東京音楽学校を受験して失敗。試験の時にピアノの譜面台にベートーヴェン肖像画を置いて受験して、試験官の先生方の失笑を買ってしまいました。

あくる大正15年の3月の試験は、規矩士兄ときちんと準備をして合格しました。この年には黒澤すみ(後の規矩士の妻、たなかすみこ)も一緒に受験。こちらは一発合格です。

 

井口基成は士族の出でしたが、どういう訳か祖父の代にクリスチャンになったそうです。それで基成自身も洗礼を受けました。そして8歳年上の姉が教会のオルガニストだったので、その影響で妹、愛子がピアノを習いだした。先生は宇佐美ため先生です。そんな姉と妹を見ていた基成少年は音楽とピアノが大好きになってしまった。始めは姉や妹のやっているのを見よう見まね。そのうち姉や妹に「ボクにも教えてよ」と言うのに「お前は弾けなくていいの」と教えてくれない。自伝には「女の姉妹は意地が悪くて教えてくれない」と書いてありました。

井口家は士族で会社経営をしていたので、男の子は商大(今の一橋大学)や帝大に行って事業をしたり、会社経営をするのが家のルール。しかしどうしてもピアノがやりたい。父の反対を押し切って母がこっそりピアノを習うようにしてくれたそうです。そして宇佐美先生の紹介で田中規矩士先生の所に現れたのでした。

レッスンでは田中先生は普段は優しいのだが、ピアノに関してはとても厳格であった。チェルニーの30番の1番がちっとも合格にならない。基成少年はとうとう怒ってしまって

「こんなことならぼく明日から辞めますっ!!!」

といって帰ってしまった。田中先生はびっくりしてしまって、妹、愛子の先生、宇佐美先生のところに行って、

「あんな恐ろしい子は初めてだ」

と言ったらしいです。それを母が聞いて、基成少年は叱られ、すぐに田中先生の所に謝りに行ってくれた。彼も「すみません」と小さくなって謝った。そんな事件もあったらしいです。

これらのお話は、

「わがピアノ、わが人生」音楽回想(メモワール)芸術現代社 1977年

の24ページから25ページ、34ページから35ページに書いてあります。

 

基成氏の父は「井口家の男子は家業を継ぐか、事業をするべし」という考えであったようですが、彼は後年桐朋学園音楽部門を創設しました。これは基成氏の父の考えを実現させたと考えられるでしょう。学校経営は事業です。

妹の愛子、そして残念なことに離婚しましたが妻の秋子も桐朋学園音楽部門の創設に参加。そして基成氏が亡くなって二人とも相次いで後を追って亡くなりました。

基成氏の姉は早くに亡くなったようです。

基成氏に「あんたは弾けなくていいの」と言ったと伝えられる妹、愛子氏ですが、結局なんやかんやで兄の基成氏が大好きだったのでしょうか。音楽を通じた兄妹愛、そして同志でもあったのでしょう。

 

そして三郎氏は自分で天丼を作ったようです。この時代の男子が台所に入るのは珍しいと思います。他の記述からも割と気軽に台所に入り込んでいろいろとしているようです。家族の中で女性は母のみ。(長兄敬一の妻はどういう訳かいつの間にいなくなっている)男所帯だったので気軽に台所に立ったのかと思います。