1923年(大正12年)9月1日から100年目の今日
ちょうど100年前、関東大震災がありました。
発生時刻は11時58分。
死者約10万5千人。この中で焼死者は9割だそうです。
全壊、全焼住家約29万戸。
甚大な被害を出した災害でした。
「田中三郎の日記」を書いた田中三郎さんはこの時神奈川県横浜市に住んでいました。
現在の住所で横浜市西区御所山町のようです。
日記によると、長兄は勤務先の東京、次兄は自宅でピアノレッスン、母は勝手で洗濯、本人は父と一緒に茶の間で新聞を見ていました。
そこにあの大地震。三郎さんは書きます。
「突然ビリビリという障子、唐紙の音、やがて器物が倒れる、ガラスが破れる、とても室内に居られず何物も持たず勝手口から我が家の横路に飛び出たが、その時の震動は実に大きく、家の瓦は飛ぶ、石段の石がめちゃくちゃに落ちる、家はミリミリと傾く。まるで食膳の茶器を下部より御膳諸共動かすかのごときであった。この如き危険の位置にうろついていた余が今日地上に立つことの得たのは不思議というより他に道がない。」
丁度地震が起きた時刻はお昼時。この当時は食事の支度にはたくさんの火を使います。この日記からもあっという間にあちらこちらから火が出た模様が書いてありました。
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三郎さんは書きます。
「黒煙もうもうたる火煙は、戸部4丁目方面より現れ出た。家の坂下渡辺邸の白煉瓦は全部往来に落ち、電柱は傾き、その間をカスカス歩き登り来る人々は皆、烈傷を負い、流血し、目も当てられぬ様なり。婦人の如きは素足にて泣き泣き走り、老人は呼吸も絶え絶えに『水をください、水を一杯』とさらに悲哀なるは親子皆散り散りになり、道路に泣き崩れ、身体谷まりたる場面、誠にこの如き往来に於いてこれ等の悲しき光景を目前に見るによってもいかに横浜全市の状況の惨めなるかが察することが出来る。」
地震によって建物が壊れ、塀が崩れ、そして電柱も傾き、それらの下敷きになってしまった人々の阿鼻叫喚が聞こえてくるようです。
何回か襲ってくる余震。その間にも「爆破の如き怪しき音がドーンドーンと聞こえて」いたとのこと。
結局傾いた自宅から近くの神奈川県立横浜第一中学校に避難をしました。
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横浜市の三郎さんの自宅付近は震度5強から震度6弱は揺れたと思われます。それより怖いのが火災発生です。あっという間に火が回っていることが、日記に記されています。
この日は台風が能登半島にあったらしく、風が強かったそうです。この強風が火災被害を大きくした可能性もあるかもしれません。
折からの南風と火災による熱風。避難先の横浜第一中学校も暑かったのでは?と想像しています。この当時は家財道具を持っての避難。校庭も講堂も家財道具で「芋を洗う」ように大混雑。その中で「いつ避難先に火が回ってしまうか?」という恐怖の中の一夜を、三郎さんは淡々と書いています。それだけにこの恐怖がいかほどのものであったか。