田中三郎の日記

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164.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。7。大正12年9月3日中国人?が殺されるのを見る。1

(2023年10月14日投稿)

「田中三郎の日記」本文では、画像で出したのですが、こちらでは一部翻刻します。

「時に2人の者、多勢に縛られて来る。余は彼ら両人を見たるに鮮人に非ずして、支那人なり。しかるに大勢の魚河岸連、在郷軍人連は警官の言うも聞かず、木刀等にて両人を滅多打ちになし、遂に線路上に殺してしまった。多分、多くの者は両人がピストルを所持せるにより、危険人物として殺せしならん。もしこの支那人が善にして鮮人に関係なく、更に鮮人を殺すという考えにてピストルを持ち、遂に道に迷いてまごつきたる者とすれば、実に可哀想なことである。」

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

三郎氏によるとこの出来事は東神奈川駅付近での出来事としています。

 

『それは丘の上から始まった』には朝鮮人以外に中国人も犠牲になったことが書かれていました。

関東大震災当時、横浜には二種類の中国人がいました。旧居留地に住む「華僑」と、それ以外の街に住む「中国人労働者」です。

「華僑」は山下町の旧南京町に住む、古くから日本に住み着いている中国人です。この人たちの子孫が現在の「中華街」に繋がっているのだそうです。主に「広東省」出身で、貿易、洋裁、理髪、家具製造といった仕事をしていました。

それ以外に1920年ごろ、出稼ぎ労働者や行商人が横浜に現れました。彼らは主に浙江省などの出身で、単身の成年男子です。この人たちが工場や土木現場で働く労働者になりました。

この中国人労働者は低賃金。日本人労働者、朝鮮人労働者よりも低賃金で働いていたようです。この低賃金は雇用主にとっては都合がいいので、多く雇われていたようです。1899年、外国人の居住、労働が自由になりました。しかし勅令第352号が発せられ、「外国人労働者は地方長官の許可を得る必要がある」とされました。

この1923年、関東大震災のころ、日本の植民地支配下にあった朝鮮人、台湾人は「外国人ではない」と見なされ、制限がありませんでした。

しかし中国人は「外国人」と見なされ、制限がありました。東京ではこの勅令は黙認されていたようですが、神奈川県では中国人労働者の就業をほとんど認めていなかったそうです。

しかもこの時代、第一次世界大戦時の好景気が終わり、反動不況でした。日本人労働者が「低賃金の中国人に仕事を奪われる」と思われ、恨まれていたようです。

1922年以降、「中国人労働者の雇用を禁止せよ」という要請が高まっていました。

(169ページから171ページ)

そんな中、1923年(大正12年横浜市高島町で、中国人と日本人の労働者が衝突する事件が起こりました。「高島町事件」と言います。負傷者20名を出したとのことです。(173ページ)

つまりこの高島町事件での中国人労働者は、無許可の労働者たちでした。

このような不穏な空気が、関東大震災以前に横浜から川崎にいたる京浜地帯にあったということです。

関東大震災で華僑が住む南京町は罹災し、焼失しました。生き残った彼らはいろいろと迫害を受けながらもなんとか船で横浜を脱出。神戸や上海に避難したそうです。

しかし貧しい中国人労働者はおそらく歩いて東京の「中国人労働者街」のある大島町(現在の東京都江東区大島)や三河島(現在の東京都荒川区)を目指して避難をしたようです。そこには彼らの知人縁者がいたのです。しかしこの大島町でも中国人労働者虐殺事件が起きてしまいました。

本来流言では「朝鮮人」だけだったはずです。それが何で中国人にまで派生したのかは推測の域を出ないそうですが、仁木ふみ子氏の著書によれば、「この大島町の虐殺は、日本人労働ブローカーが、日本人より安く働く中国人労働者を目障りに思い、朝鮮人虐殺で騒然としている状況に便乗して、計画的に虐殺した」と書いているのだそうです。(183ページ)

他地域ではどうだったかはわかりません。本『それは丘の上から始まった』でも「まだ解明されていない」となっています。

さて、それを踏まえて三郎さんの日記を次の投稿から読み解いてみます。

(この投稿は中国人を支那人朝鮮半島出身者を朝鮮人もしくは鮮人と書いています。元の日記などにあった文言をそのまま書きました。差別を助長するものではありません)