田中三郎の日記

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163.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。6 何故三郎氏はあの情報を信じてしまったのか?

(2023年10月13日投稿)

横浜第一中学校では、校舎の中には戸部警察署と、保護された朝鮮人たち。校庭には「不逞鮮人あらば殺害する」といきり立つ自警団がいる避難民。そこは叫び声と銃声が鳴り響き、大混乱の極みであったことがわかりました。

この大混乱の中に田中家はいたのでした。

2日の「朝鮮人事件」後、田中家は、近所の桃井氏宅が被害が少なかったので、横浜第一中学校を出て桃井宅に避難しました。桃井宅に避難したのは、横浜第一中学校が異常で殺気だっていたからと思います。のちに残されている手紙から次兄田中規矩士はかなりナイーブな性格だったようです。こんなピリピリしたところにいたら、それだけでメンタルやられそうです。

そしてあくる3日、田中家の面々は、無法地帯となっていた横浜を出発して、東京に向かうのでした。

この東京行きは、東京から横浜に戻った長兄敬一の判断ではなかったか?と推測します。つまり「東京の方が横浜より幾分まし」ということを彼は知っていたと思います。そして東京に住む親戚を頼ることにして、横浜を後にするのでした。

 

かなり詳しく書きました。『それは丘の上から始まった』から、三郎氏の日記の内容の意味がわかりました。東大の外村教授が書いていたように、この時代「朝鮮人=危ない人」という図式が出来上がりつつあったそうです。地震で不安な中、このような誤認識で、このような事件が起こってしまったことを知りました。

www.tokyo-np.co.jp

 

さて、横浜第一中学校の校庭に現れたのは何だったのか?

中の人の推測(妄想かもしれない)です。

避難民の家財道具などを狙った強奪団?

それとも、異常な緊張感の中、ピリピリしていた人々の小競り合いがあった。それはちょっとした喧嘩となった?その喧嘩がエスカレートして「お前は朝鮮人だろう?」になって発砲事件?

横浜という街は開港するまでは寒村でした。それが開港して急速な発展とともに、日本全国から仕事を求めてたくさんの人が来たという街です。日本だけではなく、朝鮮半島、台湾、中国からの移住者もいます。

方言の強い地域からの移住もあったでしょう。そういう人たちが訛りの強い日本語を話せば、いきり立った人が「お前は本当に日本人なのか?」と誤認することもあったかもしれません。

津軽弁で話すあるSNSの投稿のコメントに

「韓国語っぽく聞こえる」とあったそうです。以下の動画はそこをお笑いとしていますが、あの時の横浜では大変なことになってしまったかもしれないと思いました。

津軽から横浜に仕事を求めて移住した人もいたかもしれない。なんとなくの感覚ですが、東京、神奈川といった首都圏に移住した人は東北地方の人が多いように思います。中の人の感覚なので、エビデンスはありません。

(だからお盆の時期の東北道が激渋滞するんだと思います)

www.youtube.com

『それは丘の上から始まった』によると朝鮮人が暴動を起こしたり、避難民を襲ったり、発砲したりした事実はないようです。

むしろいきり立った自警団に襲われて命を落とした人々がたくさんいた、ということだそうです。

 

まだ20歳の三郎さんが、あの状況でいろいろなことを知るのは困難だと思います。あの日記に書いたことはおそらく三郎さんが聞いたことそのままなんだと思います。三郎さんは周りが言った「朝鮮人が攻めてきた」というフェイクニュースを信じてしまった。そして信じるだけの雰囲気と、条件がすべてそろっていたのだと思います。

三郎さんは1957年(昭和32年)に亡くなったのだそうです。この日記はいつ、兄規矩士の妻、たなかすみこの元に渡ったのかはわかりません。そしてたなかすみこから三郎氏の長男に渡りました。その三郎氏の長男の遺品から昨年2022年に出現したのです。まるでちょうど「関東大震災100年」の年に合わせるかのように。

この日記の「関東大震災」の記録は、まさにその場にいた人の貴重な証言となりえると思いました。

 

そして大量の情報が行きかう現代でも「フェイクニュース」はなくなりません。物事を柔軟にとらえるしなやかさと、正しい情報を見極める能力。この2つの技術を磨くのは現代を生きる私たちにも「永遠の課題」なのかもしれないと思います。