田中三郎の日記

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166.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。9.東京に向かう途上で1.

(2023年10月18日投稿)

田中家の人々は3日、横浜を出発。東海道本線の線路の上を歩きながら、東京を目指しています。

三郎氏の日記より。

横浜駅もめちゃめちゃになり、駅前の惨状は目も当てられず、電線は往来に落ち、人々の通行を苦しめていた。又、半焼となった電車の壁には、何某無事何処に避難せりとか、簡単な文句が白墨で書かれてあった。高島町の大通りは人の波を打ち、老人、子どもの往来には甚だ危険であった。月見橋は落ち、橋下の水は真っ黒にて一種怖ろしき感を起こさした。されば鉄橋を一列になり両親を助けつつ渡ったのであった。高島駅上の大時計は実にこの記念すべき大正の御代の大地震を物語るものの如く静かに我々に12時2分前を示していた。今、我々がこの前に立った時の感は、一種異様で、又おそらくこの時計の停止した目盛りを見る者は、永久に孫子の間に悲惨な現状を物語り、かつ書き伝える事であろう。ああ、一朝にして世の中は一転してしまった。」

そして東神奈川駅付近では、中国人?と思われる人が惨殺されるのを見ました。

他にも「朝鮮人が現れた!」という報を聞いて、難を避けるためどこかの小屋に避難したりしています。

日記上ですが、三郎氏が朝鮮人に立ち向かったのは、横浜第一中学校校庭にいた時、在郷軍人連の命令で棍棒を持って応戦した時だけのようです。

三郎氏は「線路上は京浜間の避難民等で人波を打っていた」と書いています。

そして線路上には「時々朝鮮人の線路に放棄された死体を見て」と書いています。

現代より夏の気温は低いとはいえ、どうやら昼間は30度を超しているようです。線路の死体はだんだんと腐って悪臭もただよってきたかと思います。

三郎氏はこの様子を絵にしています。日記本文では「残酷かな?」と思い掲載しませんでしたが、こちらでは公開することにします。

そして田中家が鶴見を通過するのは9月4日です。三郎氏の日記には「鶴見の総持寺には朝鮮人が多くいるとのこと」と書いています。

この鶴見のことが『それは丘の上から始まった』に書かれていました。

鶴見はこの当時は横浜市ではありませんでした。神奈川県橘樹郡鶴見町です。東海道沿いの農村でしたが、1909年に曹洞宗総本山総持寺が石川県から移転。沿岸部の埋め立てが進み、大正期には大工場が立ち並びました。この埋立地の工事や、大工場に多くの朝鮮人労働者がいたようです。

関東大震災では大きな揺れに見舞われましたが、幸い火災が起きず、被害は小さいものにとどまりました。一方鶴見は東京と横浜を結ぶ東海道沿いにあることから、横浜などの罹災者が東京に向かう通過地となりました。そのことから多くの避難民を受け入れ、休憩所を設け、在郷軍人会や消防組院などとともに負傷者の手当てや保護も行いました。(125ページ)