田中三郎の日記

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167.『それは丘の上から始まった』を読む―田中三郎の日記と照らし合わせて。10.東京に向かう途上で2

(2023年10月19日投稿)

9月2日昼頃、例の「朝鮮人暴動」の流言が鶴見にも伝わりました。伝えたのは横浜方面から東京方面に避難する人々。東海道沿いの町々もあっという間に「流言」が広まっていったそうです。

渡辺歌郎という医師で、町議会議員がいました。彼が書いた回想録によると

「人心次第に不安となり、隋して朝鮮人を悪むこと甚だしく、見つけ次第に大勢にて蹴る殴るのを残酷を演じ、現に本院(渡辺医院のこと)わきを大勢の若者が一人の鮮人を捕らえて、裏の警察へ連れて行くのを見たが、後方より打つやら蹴るやら、鮮人は頼りに何か哀訴するらしいが、元より言語は通ぜすし、唯、これを押しとばしたり、棍棒で衝くやら殴るやらの噪ぎ。余之を実見見れば、鮮人はすでに右足の下腿に骨折しおりて歩行不能なりたるを認めたり」(126ページ)

こうして在郷軍人会、青年会、消防組などの人々が武装し始めました。

この時総持寺境内には200名あまりの朝鮮人がいたそうです。1日夜、「津波が来るかもしれない」という噂が立ち、海岸沿いの住民が総持寺に避難していましたが、2日にはほとんどの人が帰宅。しかし朝鮮人は「暴行に遭うかもしれない」という危険から、帰るに帰れなくなってしまいました。

しかしこの総持寺も危険と判断をした鶴見警察署分署署長大川常吉の判断で、総持寺朝鮮人も鶴見警察署に移されたそうです。この移送もいきり立った町民と警察の間で小競り合いがあったようです。それもこの大川署長の機転と判断で成功。

この大川常吉署長のことは、この本の著者、後藤周氏が詳しく書いています。

www.kanaloco.jp

大混乱の中、群衆と一緒に朝鮮人虐殺に走ってしまった警察官もいましたが、この大川署長のように冷静に判断をした警察官もいたということです。

さて、この総持寺からの移送は9月3日のことだったと本から読み取りました。(ここが本では今一つ読み取れません)となると田中家の人々が鶴見を通過した9月4日には総持寺には朝鮮人はいなかった可能性がありますが、「総持寺には朝鮮人がいる」という噂はまだ飛び交っていたのだと思いました。

『それは丘の上から始まった』にはこの東海道沿いでも「朝鮮人虐殺が多くあった」と書かれていました。それが三郎氏が書く「線路上の死体」なのでしょう。

どちらにしても田中家の人々が異常な緊張感の中、東京に向かっていたということは間違いないということです。

 

さて、三郎氏はこの「朝鮮人が暴動を起こす」という情報がデマであることを一言も書いていません。9月4日の時点では、まだこのことがデマであることを人々は知らなかったのかもしれません。実際には9月2日に戒厳令が施行されていたようですが、混乱は続いていたようです。

田中家の人々が大井町の親族の家にたどりつくのが9月4日。しかし途中で疲れ果ててしまった父母を生麦の知人に託していたので、安否確認のために5日に再び生麦へ。明くる9月6日、横浜の旧宅地へ。この後も大井町と横浜を往復。9月7日には大井町で兄弟3人で夜警をしたと書いてありますが、この後の往復している時、「朝鮮人暴動の話」は一切書かれていません。このころになるとあの情報はデマだったのか?ということが一般に広まっていったのかもしれません。

 

その話を聞いた時、三郎氏はどう思ったか.....。

 

(この『それは丘の上から始まった』では、大川署長のその後の話や、9月2日にあった虐殺がどう追悼されたのかなどの記述が続きます。ご興味のある方は是非お手にとっていただけたらと思います。

アマゾンのリンクも貼っておきます。)

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