田中三郎の日記

カテゴリーに月ごとに分類してあります。カテゴリーをクリックしてから入ると読みやすいと思います。

55.大正13年1月26日3 田中家の歴史3 田中家音楽事始め1

父は学校から帰るといつもヴァイオリンを弾いたり、オルガンを練習したのだ。ヴァイオリンは外人より譲り受けしもの、オルガンは西川製のもので、共に珍品であり、殊にヴァイオリンのサックの如きは、旧型のまるで人形を入れるような黒塗りの丈夫な箱で作られ、震災前まで旧宅の床の間に置いてあった。父は学校を辞して後も時々これらを出し、得意の曲を奏していた。父はまたピアノも弾いた。このピアノは西川楽器製造所、最初の作品にかかるもので、太田町より御所山に移転した数年後、あの火事において、木村繁四郎(旧神奈川県立横浜第一中学校校長)、人見鹿太郎氏(現横浜市本牧小学校校長)、服部氏および数人の出入り商人などの尽力(漢字が読めない。多分そういう意味だと思います)により、幸いにも火災の危をまぬかれた。製造所第2代の主、西川安蔵氏の時代に至り、氏の頼みにより新しき製造所と交替に、これを譲った。そして安蔵氏死して後、西川楽器製造所の日本楽器製造株式会社と改名された今日も右のピアノはなお、その工場たる神奈川鶴屋町に記念として保存されてあるとか言う事だ。」

 

田中家音楽事始めの情報満載です。

小学校の先生であった父が「音楽好き」だったようです。ヴァイオリンを弾き、オルガンを弾き、ピアノも弾いたようです。

そして家にヴァイオリン、オルガン、ピアノがあったと書かれています。ヴァイオリンはどういうものかはわかりません。オルガンは西川製と書いてあります。

西川楽器

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西川オルガンの音

7分27秒あたりから西川オルガンの音です。田中家にあったオルガンはどのくらいの大きさだったのかはわかりません。そしてこの動画の楽器は大正時代とあります。西川楽器は1921年(大正10年)に日本楽器に買収されてしまったのですが、大正時代はこの後5年しかないので、田中家にあったオルガンと似た音色だったかなと想像します。

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田中兄弟の父、田中敬義氏は1854年生まれ。1884年明治17年)に結婚しました。長男敬一は1890年(明治23年)生まれ。次男規矩士は1897年(明治30年)生まれです。横浜の西川風琴製造所創業が1885年(明治18年)だそうです。そのころ既に「小学校でオルガンを使って唱歌を教えなさい」という文部省の方針がありました。ただこれは地域によって「出来る地域」と「出来ない地域」があったと思います。しかし横浜はハイカラな街。「出来る地域」だと思います。

私の推測です。

田中敬義氏は小学校の先生だったようなので、横浜の小学校でオルガンと西洋音楽に触れられ、愛好家になられたのでは?と思います。そして小学校では「唱歌」も教えなくてはなりません。敬義氏はどこで習われたのかはわかりませんが、どうやら「唱歌」も教えたようです。

敬義氏は東京音楽学校選科に1901年(明治34年)から1908年(明治41年)まで在学していました。専攻はピアノ。(2023年12月18日記述)

詳しくはこちら。

91.規矩士の父、田中敬義は東京音楽学校選科に在学していた。 - 田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

それで同じ横浜の西川虎吉と音楽を通じた関係があって、西川オルガン、西川ピアノを所有していた?

西川がピアノを作ったのは1916年(大正5年)からだそうです。しかし西川楽器がピアノを作ったこの年に規矩士は東京音楽学校予科を卒業。敬一は1914年(大正3年)に東京音楽学校師範科を卒業されています。お二人はどこで練習をしたのだろうか?

父、敬義氏が東京音楽学校選科のピアノ専攻だったようなので、家にピアノがあったのかもしれない。そしてひょっとしたら手ほどきは父がやったのかもしれない。(2023年12月18日記述)

 

謎が謎を読んでいます。

それとも『日本のピアノ100年』によると西川楽器では、1916年以前にも材料を輸入して組み立てた楽器も西川ブランドで売っていたようなので、そんな楽器を田中家が持っていたのかもしれません。

それを西川楽器二代目社長の西川安蔵氏の頼みで、新しい楽器と交換をしたのかもしれません。

西川楽器は1919年(大正8年)2代目の西川安蔵が流行性感冒であっけなく亡くなりました。39歳だったそうです。

引退していた初代も後を追うように亡くなり、その後を妻、千代子が頑張りますが、第一次世界大戦の反動不況があって持ちこたえられず、1921年(大正10年)に日本楽器に買収されてしまいました。西川楽器の工場は日本楽器横浜工場となりましたが、1939年(昭和14年)ごろにはこの横浜工場もなくなってしまいました。

三郎氏の日記によれば「2代目社長西川安蔵がピアノの交換を申し出た」と書いてあります。なのでピアノの交換は1919年以前の話なのかもしれません。

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