3月9日(日)晴 曇り
3月に入ってから、かえって寒くなった。朝は裏の田んぼに霜柱が立っている。午前中、露木、木村氏稽古に来たる。余は朝、瀧王子の洋服屋を呼びに行く。敬一兄は床屋に行く。その留守中に洋服屋、敬一兄の仮縫いを持って来たる。いないので洋服だけ置いて帰る。父は一寸竹須方に行く。小山先生還暦祝賀会より、敬一兄に14日、牛込にて相談会をするにつき、来車ありたしとの手紙来たる。また、共益商社の調律師中谷氏より規矩士兄に「ピアノを見に来たれ」との通知あり。規矩士兄は午前中ピアノ練習す。正午に洋服屋また来たる。1時ごろ、父は竹須氏と鶴見に行く。敬一兄と規矩士兄は銀座の共益商社にピアノを見に行く。父は4時頃帰宅す。途中鎌田にて竹須氏と別れし由。氏は調布村に梅を買いに行ったと。余は借りた紋付を竹須方に返しに行く。規矩士兄、敬一兄は6時に帰宅す。共益にて鳥井氏に会える由。父と規矩士兄は風邪の気味なるにより、守妙を飲んで早く寝る。また、夕刊さぼる。
本日規矩士兄の買うピアノ1台決定す。」
田中家体調が悪くなるとすぐ「振り出し」とか「守妙」とかを飲むようです。何かの薬かなと思っていましたが、見つけました。「振り出し」と「守妙」は同じ薬のことでした。
女性の「血の道症」の効能が書いてありますが、風邪にも効くと書いてありますね。冷えて風邪をひいた時に効能ありのようです。
このウェブサイトの真ん中付近にきっと田中家で飲まれていた「守妙」はこんなだったかな?という画像があります。
この薬の製造元は現在でも存在しているようです。残念ながら守妙は止めてしまったようです。
そして規矩士兄は共益商社にてピアノを買うことにしたようです。
ところで共益商社とは?
1887(明治20)年ごろ、山葉寅楠の作ったオルガンを扱い出したようですが、結局1909(明治42)年、日本楽器に買収されてしまいます。共益商社の場所は現在のヤマハ銀座店です。
ということは、この時代共益商社という会社はないと思います。
そして三郎さんは「規矩士兄に共益商社の調律師中谷氏が、『ピアノを見に来たれ』と通知」と書いています。
中谷氏はこの方です。中谷孝男氏。YMOの細野晴臣氏の祖父で、戦前戦後を通して調律師として有名だった方です。
1906年(明治39)日本楽器の徒弟養成所一期生として入所。オルガン部に配属される。
1914年(大正3)東京支店に転勤。
しかし、1926年(大正15)の日本楽器の労働争議で、会社を退職。調律師として一本立ちします。
昭和24年2月号の『音楽』という雑誌に戦前から活動していた音楽界の裏方(調律師、マネージャー、写真家等)の回想対談が掲載されていて、
その中に調律師の中谷孝男氏の回想として「調律師ながらクロイツァーのマネージャーとしても有名だった中谷氏がマネージメントを手掛けた演奏家は最初は高折氏、その後上野の教授陣だった田中氏、豊増氏を手掛けた」とあるそうです。
この田中氏は規矩士兄ですね。
1938年(昭和13年)のたなかすみこの一番初めの著作「新しい考案」の発行責任者がこの中谷氏です。
これらのことから、この大正13年当時、中谷氏は共益商社の調律師ではなく、日本楽器の調律師ということになります。既に共益商社という会社はありません。
しかし三郎氏は「共益商社」と書き続けています。
ということは、田中家では「日本楽器東京支店」(現在のヤマハ銀座店)は旧来の会社名「共益商社」と言っていたのかもしれません。
となると「共益商社の富永岩吉氏」は「日本楽器東京支店の富永岩吉氏」のことかもしれません。
こちらのチラシ、よーく見ると「日本楽器製造株式会社東京支店 共益商社」と書いてありますね。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2954189/1/16
三郎氏の2月11日の日記に
「西川楽器の富永さん」とあります。
こうなるとこちらは「日本楽器横浜支店」のこと?かもしれません。
日本楽器横浜支店はもともと「西川楽器」でした。1921年(大正10年)に日本楽器に買収され、横浜支店となりました。
この「日本楽器東京支店」と「日本楽器横浜支店」の関係はどんな感じだったかわかりませんが、同じ日本楽器として「富永岩吉さん」が出入りしていたかもしれません。
と思って検索をかけてみたら、以下のウェブサイトを見つけました。
【明治大正期楽器商リスト】
http://charlie-zhang.music.coocan.jp/MOONH/GAKKIL.html
それによると大正12年横浜商工名鑑ピアノオルガンヴァイオリンマンドリン楽隊用楽器蓄音器レコード「共益商会横浜売店 富永岩吉」住所は「姿見町二ノ五八」です。
このことからの推測です。1921年(大正10年)西川楽器が日本楽器に買収された後、西川楽器は「日本楽器東京支店 共益商社 横浜売店」という立場にあったのかもしれません。
で、田中家では銀座の日本楽器を「共益商社」と呼び、横浜の「日本楽器」を西川楽器と旧来の言い方を踏襲していたのかもしれません。
中谷さんでこんな推測をしてみました。
そして、敬一兄と規矩士兄は二人で「銀座の共益商社」に出かけて、なんとピアノ購入を決めたようです。
(中谷氏の話は梅岡楽器サービス梅岡俊彦氏と東京マドリガル会まつだきくこ氏よりご教示いただきました。お二人に感謝いたします。)
この投稿の参考文献
ピアノの近代史 井上さつき著 中央公論新社 2020年
日本のピアノ100年 前間孝則 岩野裕一 草思社文庫 2019年
田中智晃著 『ピアノの日本史』名古屋大学出版会 2021年